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雑記103 思い出すこと。友人との熱中した会話を家にかえって長らく反芻していた時期のこと。

雑記103 思い出すこと。友人との熱中した会話を家にかえって長らく反芻していた時期のこと。


文字数3300



子供の頃テレビゲームに心を奪われた。

親は自分に対して、1日のプレー時間の制限を作った。
1日に決められた時間量しか自分はテレビゲームをプレーすることが許されなかった。

自分は決められた時間量のプレーをした後、もっとたくさんプレーしたいと思ったものだった。




どういう経路で入手したのか覚えていないが、その時熱中していたテレビゲームの攻略本を自分は持っていた。

攻略本にはプレー中の画面の画像がたくさん印刷されていて、テレビゲームをプレーしないでも、その画像をまじまじと眺めていると、自分は自然とプレー中の心持ちを思い出した。

攻略本の画像の力はなかなか強く、いったん他のことに気を取られても、攻略本が近くに開いて置いてあれば、それを目にすると自分の心はテレビゲームと攻略本の世界に引き寄せられるのだった。




当時の自分の心は、強くゲームの世界に引き付けられていて、例えば、技やコマンドが一覧のように記載されているところに自分は、使いやすいor使いにくい、便利or不便、などを示す「○△×」 などの記号を盛んに書き込んでいた。

そうした書き込みを不意に見かけた友人はずいぶんそれを面白がっていた。
しかし自分はあくまで真面目だった。
何かもっと、「何かしら奥に」入っていきたかった。




細かい事情は忘れたが、例えば仮に1日60分だけテレビゲームをプレーすることが許されていたとすると、ある時期の自分は、60分のプレー時間の別に、余計に3時間くらい、ゲームの攻略本を眺めながらプレー中の記憶をたどって、プレー中と似たような心模様を自分の中に探る努力をしていた。

次の日に実際に電源をつけてテレビゲームをプレーする時、自分は前日に攻略本を見ながらイメージの中で育てた心の経験を助けにしてプレーを開始するのだった。

これはまるで、次の日に受ける授業の予習を入念にしておくことで、いざ授業を受けるときに、心や頭の準備がほとんどしっかりされている状態を作り出しておくことに割と似ているように自分は感じている。




その後、ある時期を過ぎて、だんだんとテレビゲームをしなくなった。

その代わり、自分には別の現象が発生した。

ある時、学校のクラス替えの結果、話がやたらに合う友人数人と新しく知り合うようになった。その友人たちとの交流が自分の今までのあらゆる交流の中で飛び抜けて楽しかった。

自分はサッカーが以前から好きになっていたが、サッカーをする機会を得られず、また、サッカーの話を思い切りできる友人もなかなか得られず、なにかくすぶるような思いを抱えていた。

しかし、新たな友人関係によって、サッカーについて存分に話せる相手を初めて得られた。

友人と夢中になってあれこれ雑談をしてから家に帰ると、自分は不思議とその日の雑談の内容や情景を思い出し、反芻する習慣がついた。

次の日にまた話すまでが待ち遠しく、自分は「これについて明日は話そう」とか、「今日、こういう反応をしたが、今思えば違う反応の仕方、選択肢BやCもあり得た。」などということを盛んに心に描いた。

次の日、顔を合わせて話し出すと、テレビゲームの時と同じで、もう予習が済んでいる。顔を合わせてからウォームアップを始めるのでなくて、顔を合わせる前にすでにウォームアップは済んだ状態になっている。

こうした経験は当時の自分にとって何か「不思議な感じ」があったし、今思い返しても不思議な感じがする。





その地理を知り尽くした町を歩く時に感じる感覚がある。こっちの道をまっすぐ行っても目的地につくが、右の道に入っても、そこから目的地に着くためのルートBやルートC、ルートDなどが自然と心に浮かぶ感覚である。

そこについて詳しくない人は、ルートが何も思いつかない。

思いつく人は土地勘があるといい、思いつかない人は土地勘がないというのだと思う。

その町の地理を知り抜いていると、偶発事で迂回することになっても、とっさに少ないエネルギーで複数の目的地へのルートを案出することができる。

学生時代のある時期に、ある友人間の会話で自分が感じたある感覚は、そうした「土地勘」みたいなものに似ていて、それは自分に「自在感」を感じさせた。
それは心地の良いものだった。




話をだいぶ端折って進めるが、自分は結局人生でどうしたいのだろう、何を求めているのだろう、と思うことがある。

何かしら自分の追い求める、たどり着きたいような何かがある気がしているのだが、それを人に問われると、いつもうまく言えないのである。

それは今も自分の中に漠然とした形でしかつかめないし、それは更新されていくもので、一度説明し得たつもりになっても、時間を置くとまた変容したりする気もするものである。

だが、さっき述べたような、「それに対して土地勘があるという感覚」、言い換えれば、「その町・地域を知り抜いていて、いくらでも目的地へのルートを案出できるという自在感」に到達すること、またはそれを目指し続けること、

そういうものに自分は惹かれているように感じる。

それを短い言葉で言うと、達人に憧れ、熟達に憧れていると言っていいと思う。

何かを知悉 チシツ (知り抜くこと)することに憧れて、円熟したものに憧れている、とも言える。






そこに何か付け足せば、達人や熟達、知悉や円熟は完成のないものであってほしい。

おそらくそういう風なものだとは思うが、ある人の言葉で言えば、「完成に向けた近似値を永遠に更新し続ける試み」というような性質のものであってほしい。

(つまり、完成=100%を目指すが、過去のある偉人は99.999999 (小数点6桁)までたどり着き、また他の偉人は99.99999999(小数点8桁)までたどり着き、という具合に、100には到達し得ない、ともはや言っていい性質)

(これは完成=誤差 0 ゼロを目指すが、0.00001 まで推し進めたが、0に未だ誰も到達できぬ、という風に言い換えてもいい。)

(ちなみに、ある人→哲学者のベルグソン。白水社 ベルグソン全集の5〜6巻あたりの記述より。直観についての説明から。)



ある種のテレビゲームのように、攻略しきって、飽和してしまうと目指す山がある時になくなってしまう。

しかし、自分の頼りにしている先人の言葉をなぞって読んでいると、どうも幸いにもこの世界はあくまで「完成の近似値」しかないもののように自分には思われる。

本居宣長は、亡くなるごく直前まで、学問探究に精を出していたように自分は認識している。
(小林秀雄の著述からそう認識している。読み間違いでないことを祈る。)

小林秀雄も亡くなる直前まで、病室で鉄斎の絵を鑑賞したり、何かしら「自分の追求する何か」に向けて歩みを進めていたようである。

人生の先を話すのは気が早い話だが、自分も人生の終わりの終わりの瞬間や、そのほんのわずか直前までは、自分なりの追うべき何かを追い求めて、歩みを続ける人間でいたい、ということを思っている。




筆の勢いで、当初書くつもりのなかったことまで書いた。

後の方に書いたことは、ひそかに心の中に思いながらまだ誰にも話したことのないことであった。

身近な友人にも改めて話したことがないことだったが、ブログというのは不思議なもので、筆の勢いで、誰にも話したことがないことも、ブログには書けたりする。

ブログに書くと、その後に身近な友人にも同じ話を話せたりする。

ブログや、不特定の人に向けて書くというのは、何か不思議なことだ、と改めて今感じている。



他の人は、あれこれ記事を書いていて、どんな気持ちで書いているのだろう、と今気になり出している。

ゆるい気楽な気持ちで書いている人もいれば、何か切実な気持ちが根底にあって、祈るような思いをひそかに込めて書いている人もいるかもしれない。

そうしたことを今までよりも、より何かしら感じ取れるようになれたらいいな、ということを今思っている。



ここまで読んで下さり、ありがとうございました。



ここまで。

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