前々回から続く公開15周年記念の最後は,作品最大の主題である「生の充実」についてです.
1.はじめに
まずは度々引用している押井さんの言葉をもう一度.
この発言の前段「死ぬのが人生」は企画書にさかのぼるお話になります.そこでは作品の中心に位置付けられています.確認しましょう.
いきなり脱線しますが,価値観の提示よりも,時代の気分を描くことを重要視すると言ったそばから,生の充実のために死を想えというのは手のひら返しにみえなくもありません.1つのページでよくやる!(富野節風).
という奇妙な文章ですが,本人の意識は次のようなものです.
確かに,宮崎監督作品の主人公によく見られるまっすぐな瞳.決断を迷わない感じ.総じて強いという印象はあります.押井さんとしては「あれはあれ」と相対化しないと若い者にはプレッシャーになると.時代の空気を描くことを重視した彼の意図は,宮崎さんを意識してのことだったようです.
話を戻すと,最初に引用した前段「死ぬことが人生」というのは「死を想わなければ,生の充実もありえない」という死生観で,作品の基本的な主題になります.そして後段の「誰かとかかわることが生きることなんです」というのも同じく作品のテーマです(が別のお話になります.「草薙水素は死なない」参照).
今回はこのうち前者について詳しく見ていきます.
2.死生観
(1)背景
先ほど企画書で引かれたメメント・モリは,生きているか死んでいるかわからない状態の人々へ押井さんが送る言葉でした.もう少し言葉を足したものに次のものがあります.
死に思いを馳せることで迫りくる"生きている"という実感.こうした視点の背景には,平和の実現により人々が死に接しにくい現代という押井さんの時代認識があります(平和と現代日本という問題意識は彼の別の作品で目にするところ).
このような認識が本作品の関連資料に垣間見られたものとして以下のものが挙げられます.
そんな現代の日本に生きる人たちが生の実感が得られないとすれば,極論平和だからだ,死が遠いからだというわけです(もっとも,衣食住に困らず多くの人が天寿を全うするまで生きて行ける社会は,押井さんがこの文章を書いている時点ですでにあやしくなりつつあったはずですが・・・).
(2)本編での描写
さて,主題についてここまで制作資料やら制作後の資料をみてきましたが,実際に本編でそれはどう描かれたのか.確認してみます.
生の実感を得るための「死の可能性テスト」はキルドレで描写されました.具体的にはフーコや水素の台詞に表れています.
また,押井さんは平和の実感についても同じように考えています.それは「ショーとしての戦争」という設定に表れており,具体的には水素の台詞です.
3.覚悟
(1)もう1つの生の実感?
次に,生の実感について少し異なる視点から話をされていますので紹介します.
情熱のありどころや自分がなりたい何者かというように,死生観と比べると身近な話をされています.先ほどの死を想うことで照射される生の実感というお話とは,別の話であろうことが分かります.
この「情熱のありどころ」という視点は,実は作品を作っていくうちに自覚されるようになったもので,企画段階では表に出てきてはいません.例えば企画段階で焦点になったとされる作品の2つの軸を見てみましょう.
①では戦死,②では戦争といったように「生の満たされなさ」は究極のところ「死」との対比で語ろうというのが当初のスタンスでした.制作が進むうちに,「死」という語り口ではない方向にシフトしていくわけですが,それはまた後で触れましょう.
さて,先ほどの,人々は情熱のありどころを求めたい,あるいはなりたい何者かがイメージできないという視点ですが,どこからそれが出てきたのか.その背景を押井さん本人の言葉で確認しましょう.
不透明な時代というわけです.そしてこれに対する押井さんのメッセージは次の通り.
ちょっと何を言っているのかわからないという方のために,本人に言い換えてもらいます.
何かと踏み出すことのできない現代人に対し背中を押す言葉.ここではその内容の是非はともかく(!),いったん整理しましょう.
これまで確認してきたのは,作品の主題について,死に接近することで感じる生の実感と,傷つくことであるいは傷つく"覚悟"で得られる生の実感という,2つの「生の実感」が提示されていることです.
両者の関係はよくわかりません.切り口が別なだけで同じものかもしれませんし,全く別物かもしれません.ここでは生の実感/充実に対して2つの視点が持ち出されていることを指摘するにとどめたいと思います.
(2)本編との関係
さて上述の死生観の話は本編だとキルドレの存在で描かれましたが,覚悟の話は本編だとどのように描かれたのでしょうか.
ここでは優一を取り上げます.これも度々引いた押井さんの言葉です.
彼は水素を背負う覚悟を決めてティーチャに挑みました.押井さんによれば他人を背負うとは他人の運命に干渉すること.そしてそれは煩わしいことでもあり,しんどいことでもあります.
だから人とのかかわりを避ける生き方が選ばれるし,そのことについていろんなところで描かれるわけです.
これらの話を踏まえて再度本編の優一を見ると,水素との恋愛の先に不幸があるかもしれないこと(土岐野「草薙氏ならやめた方がいい(…)それこそお前,頭を撃たれてさようならーだ」),それを覚悟の上で彼は彼女を背負う決心をしたということになります.また,彼は自分の命を投げてティーチャに挑みますがそれは彼女たちのためでした.
不幸になる覚悟を持ち他人を背負おうと空に向かった劇中の優一で描かれたのは,人生に情熱の対象を持てないでいる,すなわち何ごとかに踏み込む勇気を持てないでいる若者の今ということになります.
4.昨日と今日は違う
(1)日常に耐えない
さらに押井さんはもう1つ異なる視点を提示します.
「作りながら実はそのことを考えていたわけ」には後知恵感が漂いますが,とりあえず生きているのか死んでいるのか分からない現代人の心象を,当初は死生観から捉えようとした押井さんでしたが,切り口は異なれど現代人の「生の充実」について考えていたということのようです.
先ほどの「朝目が覚めた時…」といった,ふとした日常における生の充実感の喪失もそうですが,ここでは日々の営みがルーティンと化したように見える停滞感,それが退屈で苦痛でならないこと,といった生の満たされなさが語られています.「死を想え」とは明らかに異なる視点であり,先ほどの「不幸になる覚悟」ともおそらく異なる切り口で「生の充実」を語っているように思えます.
(2)押井守の主張
そんな生の充実に関する言葉は次のものです.
引用最初の部分は劇中の優一の台詞です.
これも内容についてはともかく(!),個人的に気になるのは次のことです.それは,台詞に見られる確信はそもそも人生が情熱の対象となった者が得られるものでは,ということです.
すなわち,同じ道でも今日と昨日では違うということを実感できるのは結果であって,人生が情熱の対象になることと先後関係があるように思えます.
物語的にも,優一がこれを語れたのは,彼が水素を背負う覚悟が持ち人生が情熱の対象となったからでしょう.それ以前から彼がこうした視点を持った人物だとするともろもろ不都合が生じるはずです.
そうだとすると例えが卑近でなんともですが,ピーマンが苦手な子どもに美味しいと説く大人に似ています(そんな人いるのかという話ですがあくまでイメージ.またあくまで健康にいいからではなく美味しいから食べなさいという人.なおピーマンに個人的な恨みはありません).
舌の機能が大人と子どもで,あるいは個々人で異なる以上,彼(女)らが大人のように決して味わえないのにそれを無視してすすめるようなものです.当然,次の日からピーマンが美味しくなるはずもないですし,それを知っている子どもはそもそもそのような話を真面目に聞くはずもありません.
そういうわけで,押井さんが対象とした当の若い人たちがこの言葉によって急に明日からいつも通る道の景色が変わることはないでしょう.押井さんの主張に共感する人がいるとすれば,すでに彼とある程度視点を共有している方です.したがって,優一の「それだけのことだからいけないのか」という問題ではおそらくないのです.ちなみにこれらは「不幸になる覚悟」にも言えることです.
また,以上は冒頭で今回は宮崎監督とは違うと表明しておきながら実は同じ轍を踏んでいないかという疑問もあります.よりによって押井さんが1番伝えたかったところで.
上から目線かはわかりませんが,同じく違和感を感じた方はいたでしょう.冒頭で宮崎監督と違って後ろからささやいてあげると言ってはいますが,結局"オレの考える最強"が出ちゃっていないか.もっとも,これは人に何か言葉をかけてあげることがいかに難しいか,ということでもあります.
さらに,主張を直接主人公に語らせたという演出面も気になります.素人目にいっても台詞にする以外に,瑞稀と犬が戯れている様子や木の葉のざわめきに水素が目をやるといったようにいろいろ手はあったはずです.おそらくあえて台詞で言わせているわけですが,そこにどのような意図があるのか気になるところです.
脱線気味に言いたい放題しましたが,そもそも彼がこのように処方箋を渡すような行い自体,「若い人に何か言わなきゃという切迫感があった」という特殊事情を背景にした特殊な行いであることは知っておいていいかもしれません(たとえば,当時その現代の若者には実の娘さんが含まれていたこととか).そういうわけで,個人的には処方箋部分はいわばサービスだと思うことにしています.
あくまで筆者にとってこの作品で関心があるのは,「現代人の生の充実」という主題を複数の切り口で作品に落とし込んだことであり,そのことが作品に漂う平板でどこか重たい空気として伝わってくることです.以上を踏まえて本編を観るとまた何か発見があるのではないでしょうか.
5.おわりに
それでは最後に前々回からの積み残し,本編最後に優一と水素が「何かを変えよう」としていたことに触れたいと思います.
彼(女)らが変えたい「何か」とはキルドレに過酷な運命を強いる何かであり,それはこの世界の戦争を規定する力,摂理というべきものでしょう.
こうした観点からすると,この作品はこれから何十年あるいは百年と続く,「何か」を変える革命史の前史,あるいは第一幕としてみることができます.この世界に疑問を抱き行動を起こした最初の2人の物語.
さて,このようにどうすることもできない理不尽に対する抵抗あるいは反逆,さらには運命に抗うこと.そうした精神が作品の奥底に流れていることに押井作品らしさを確認することも許されましょう.こうした(大人の)闘いは過去の押井作品にも織り込まれてきたところです.
同じ印象は,先ほどこっそり仲良ししていた庵野秀明氏の作品(特に最近のもの)にもみられます.いずれも「抗い」を作品によく持ち込みます.
話を戻して,押井さんと庵野さんはこの世界で「生きる」とはどういうことかにも取り組みました.押井さんは本作でそれをやりましたし,庵野さんも特にエヴァ新劇場版でそれに触れたでしょう.仮にそうだとすると,彼らの中で「抗うこと」と「生きること」には強い結びつきがあることになります.
こうなってくればやはり2人の共通の師匠,宮崎駿氏が想起されます.本作で押井さんは宮崎監督を非常に強く意識していました.「よく生きる」というのはあまりに普遍的なテーマですから作家寄りの監督なら避けて通れない観はありますが,それが「抗い」と結びつくとき,宮崎氏との関係が気になるところです.
今回は以上になります.
映画『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』は公開から15年が経ちます.過酷な運命を生きる主人公らの生き様は過酷な時代を生きる現代人にどう映るのか.あのときと今で観る人の感じ方は異なるのでしょうか.
このたび複数回にまたがって作品と押井さんの意図について整理しましたが,これらはあくまで私なりの整理です.関心がある方は各自書籍に,そして作品自体に手を伸ばしご自身の目で確かめていただければと思います.
そして本記事が皆さんが作品を語り合う一助となれば幸いです.最後までお読みいただきありがとうございました.
・参考文献
『押井守ワークス+スカイ・クロラ』別冊宝島1546号(2008年)
『スカイ・クロラ ナビゲーター』(日本テレビ,2008年)
押井守編著『アニメはいかに夢を見るか』(岩波書店、2008年)
画像:©2008 森博嗣/「スカイ・クロラ」製作委員会
※追記(2024/7/21)
主題への切り口の変遷(企画段階とそれ以降)を明確にすべく文章を見直しました.