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【スカイ・クロラ考察】メメント・モリ

前々回から続く公開15周年記念の最後は,作品最大の主題である「生の充実」についてです.


1.はじめに

まずは度々引用している押井さんの言葉をもう一度.

僕が言っているのは,死ぬのが人生だということなんです.誰かとかかわることが生きることなんです.

後掲・宝島16頁

この発言の前段「死ぬのが人生」は企画書にさかのぼるお話になります.そこでは作品の中心に位置付けられています.確認しましょう.

この映画は,こんな時代になぜ生きるのかという,現代人の死生観を問う映画になるはずだ.我々はもはや,生きているのか,死んでいるのか解らない状態にある.そういう時代に向けて,こう生きるべきだ,という価値観を示すことよりも,その時代の空気を描くことの方が重要だ.今の若い人たちに,「今君らが感じている気分そのものが本物なんだ」と訴えかけることが,この映画の主題である.

(中略)

メメント・モリ(死を想え)

 この映画を通じて,過酷な時代を生きる若者たちに,死を想わなければ,生の充実もありえないということを伝えたい.

後掲・アニメは86頁(企画書抜粋部分)

いきなり脱線しますが,価値観の提示よりも,時代の気分を描くことを重要視すると言ったそばから,生の充実のために死を想えというのは手のひら返しにみえなくもありません.1つのページでよくやる!(富野節風).

という奇妙な文章ですが,本人の意識は次のようなものです.

映画の中で,理想的な人間とか正しい選択,凄まじい努力といった,一種のありうべき姿をかがることで一瞬何かが見えたりすることはあります.また確かに,涙を流すとか感動するといったことも,映画の持っている力には違いない.僕は,宮さん〔宮崎駿監督〕がやっている仕事というのはそういうものだと理解しています.
 ただ,僕がいつも思っていたことですが,素晴らしい人間を描けば描くほど,それを見ている若者たちにとってのプレッシャーになっているんじゃないか.僕にはそう思えてならない.
〔中略〕
そうではなくて,世の中には正しいといえる事柄があるんだ,正しい人間がいるかは別として,正しい世の中との接し方というか,ありようというものが依然としてあるんだということだったら語れるんじゃないかと思ったんです.何でもかんでも相対的に語るのではなくて,絶対という言葉がどこかにあるんじゃないか.大袈裟にいえば真実みたいなものが.人間が生きていくことの中で確信が持てる事柄.
〔中略〕
昔は大人は子供に対する答えを持っていたかもしれないけど,今は多分大人は答えを教えてあげられない.そういう時代なんだって気がする.答えがあるとすれば,こうしなさいとか,こうすればいいんだということではなくて,こう見ればいいんじゃないかとか,こういう見え方があるんじゃないかとかってことを,〔宮崎監督のように〕自分の前に座らせて語るんでなくて,後ろから,片口から耳元でささやいてあげる,僕にできることはたぶんそれだと思うんです.

後掲・ナビ79頁.〔〕内引用者補足以下同じ

確かに,宮崎監督作品の主人公によく見られるまっすぐな瞳.決断を迷わない感じ.総じて強いという印象はあります.押井さんとしては「あれはあれ」と相対化しないと若い者にはプレッシャーになると.時代の空気を描くことを重視した彼の意図は,宮崎さんを意識してのことだったようです.

話を戻すと,最初に引用した前段「死ぬことが人生」というのは「死を想わなければ,生の充実もありえない」という死生観で,作品の基本的な主題になります.そして後段の「誰かとかかわることが生きることなんです」というのも同じく作品のテーマです(が別のお話になります.「草薙水素は死なない」参照).

今回はこのうち前者について詳しく見ていきます.

宮崎駿監督について脱線です.彼と押井さんとの影響(応答?)関係を本作『スカイ・クロラ』と『風立ちぬ』(2013)に看て取ることはできないか.両作品は,飛行機もの,かつ大人の恋愛ものという点で共通します.興味深い問いだと思いませんか(他人任せ). 



2.死生観

(1)背景

先ほど企画書で引かれたメメント・モリは,生きているか死んでいるかわからない状態の人々へ押井さんが送る言葉でした.もう少し言葉を足したものに次のものがあります.

〔キルドレが〕生きる充実を求めるがゆえに,死の可能性をテストしなきゃならないということは,実は僕は正しいと思う.実際そうするかどうかは別としてですよ.かつては死を実感できる人間だけが大人といわれていた.それはリアリティのことだと思います.生きることの内実を理解するということは,それだけ死に接することだから.〔中略〕いずれ死ぬからこそ生というものの実感ができる.そのことがわからない間,子供でいる間は本当に生きているとはいえない.生かされているわけです.

ナビ80頁

死に思いを馳せることで迫りくる"生きている"という実感.こうした視点の背景には,平和の実現により人々が死に接しにくい現代という押井さんの時代認識があります(平和と現代日本という問題意識は彼の別の作品で目にするところ).

このような認識が本作品の関連資料に垣間見られたものとして以下のものが挙げられます.

「この国には今、飢餓も、革命も、戦争もありません.衣食住に困らず、多くの人が天寿を全うするまで生きてゆける社会を、我々は手に入れました」(パンフ35頁)

「昔と違って徴兵制もないし,大人にならないで済むだけの世の中になってきたんですよ」(ナビ80頁)

そんな現代の日本に生きる人たちが生の実感が得られないとすれば,極論平和だからだ,死が遠いからだというわけです(もっとも,衣食住に困らず多くの人が天寿を全うするまで生きて行ける社会は,押井さんがこの文章を書いている時点ですでにあやしくなりつつあったはずですが・・・).


(2)本編での描写

さて,主題についてここまで制作資料やら制作後の資料をみてきましたが,実際に本編でそれはどう描かれたのか.確認してみます.

生の実感を得るための「死の可能性テスト」はキルドレで描写されました.具体的にはフーコや水素の台詞に表れています.

フーコ「なのに,何かにいきづまっているような…見てると不安になった.聞いたことがあるの."心をいつも,何処に置き忘れているの?"って」〔中略〕「答えなかった.でも,私は空なのかなって」

水素「空の上で殺し合いをしなければ生きていることを実感できない私たちのようにね」

また,押井さんは平和の実感についても同じように考えています.それは「ショーとしての戦争」という設定に表れており,具体的には水素の台詞です.

戦争は,どんな時代でも完全に消滅したことはない.それは,人間にとって,その現実性がいつでも重要だったから.同じ時代に,いまもどこかで誰かが戦っている,という現実感が,人間社会のシステムには不可欠の要素だから.そして,それは絶対に嘘では作れない.戦争がどんなものなのか.歴史の教科書に載っている昔話だけでは不十分なのよ.本当に死んでいく人間がいて,それが報道されて,その悲惨さを見せつけなければ,平和を維持していけない,平和の意味さえ認識できなくなる…空の上で殺し合いをしなければ生きていることを実感できない私たちのようにね.



3.覚悟

(1)もう1つの生の実感?

次に,生の実感について少し異なる視点から話をされていますので紹介します.

今の時代を生きている若い人たちの気分…生きている実感を求めたいんだけどもそれが容易に見つからない.自分が死ぬという実感も持ちにくい.そういう宙ぶらりんのところで生きているのか死んでいるのかよくわからない.情熱のありどころを求めてる.自分は何者かになりたいのだけれども何者かというイメージがどうしても持てない.

NHK『映画監督 押井守 妄想を形にする』(2008)より

情熱のありどころや自分がなりたい何者かというように,死生観と比べると身近な話をされています.先ほどの死を想うことで照射される生の実感というお話とは,別の話であろうことが分かります.

この「情熱のありどころ」という視点は,実は作品を作っていくうちに自覚されるようになったもので,企画段階では表に出てきてはいません.例えば企画段階で焦点になったとされる作品の2つの軸を見てみましょう.

①思春期の姿のまま大人にならず,戦死する以外には永遠の生を生き続けるキルドレたちを,現代の若者たちに重ね合わせ,その気分を丸ごと表現すること.

②そして,現代日本の写し鏡のように,恒久的な平和が続いているがゆえに行われる「ショーとしての戦争」を通して,今を生きる現代人の,空虚な生の正体について肉薄すること.

アニメは81頁

①では戦死,②では戦争といったように「生の満たされなさ」は究極のところ「死」との対比で語ろうというのが当初のスタンスでした.制作が進むうちに,「死」という語り口ではない方向にシフトしていくわけですが,それはまた後で触れましょう.

さて,先ほどの,人々は情熱のありどころを求めたい,あるいはなりたい何者かがイメージできないという視点ですが,どこからそれが出てきたのか.その背景を押井さん本人の言葉で確認しましょう.

今の日本は,色々な自由が目の前に広がっている,色々な選択肢が広がっているように実は見えるのかもしれないけれど〔中略〕,生き方の選択肢は実は限りなく狭いのではないかと思います.恐らくそのことに本能的に気づいているがゆえに,若い人たちは,自分の未来を限りなく留保したいという衝動に駆られているのではないかとずっと前から考えていたんです.

アニメは26頁

不透明な時代というわけです.そしてこれに対する押井さんのメッセージは次の通り.

そのような渦中にいる人たちに対して,僕ができることは1つ、背中を推してあげることだと思いました.決して,良いことだけが控えているわけではない.多分人生は誰にとっても辛いものであって〔中略〕ただその中で単に辛いだけではもちろんない.
僕が最近思うことは、不幸になることをさえ恐れなければ、あるいは不幸になることを覚悟すれば、さらに積極的に言って自分自身が不幸になるという権利を行使する意志があるならば、人生というものは各々にとって、最も大きな情熱の対象になりうると思うのです.

アニメは26〜30頁

ちょっと何を言っているのかわからないという方のために,本人に言い換えてもらいます.

仕事上のことであれ,家庭のことであれ,あるいは恋愛という形をとったものであれ,「不幸になる」意志というものを持つということが,重要だと思うのです.不幸になっても構わない,むしろ不幸になることを含めて人生の価値なんだという,捨て身の人生を生きる情熱みたいなものを若い人に知ってもらいたかった.
人生を留保することで傷つかないで済むかもしれないけれど,傷つくことを恐れて生きることはできない.さらに一歩進んで傷つくことこそが人生なんだ.

同46頁

何かと踏み出すことのできない現代人に対し背中を押す言葉.ここではその内容の是非はともかく(!),いったん整理しましょう.

これまで確認してきたのは,作品の主題について,死に接近することで感じる生の実感と,傷つくことであるいは傷つく"覚悟"で得られる生の実感という,2つの「生の実感」が提示されていることです.

両者の関係はよくわかりません.切り口が別なだけで同じものかもしれませんし,全く別物かもしれません.ここでは生の実感/充実に対して2つの視点が持ち出されていることを指摘するにとどめたいと思います.


(2)本編との関係

さて上述の死生観の話は本編だとキルドレの存在で描かれましたが,覚悟の話は本編だとどのように描かれたのでしょうか.

ここでは優一を取り上げます.これも度々引いた押井さんの言葉です.

逆に優一のほうは、彼女を背負おうと決心したことで命をかける決心をしたんです.彼は死にに行ったわけじゃない.愛する者のために生きようとしたんだよ.

宝島16頁

彼は水素を背負う覚悟を決めてティーチャに挑みました.押井さんによれば他人を背負うとは他人の運命に干渉すること.そしてそれは煩わしいことでもあり,しんどいことでもあります.

人って,人生とか人にかかわろうとするとキツいから死ぬんであって,何か背負っている限りは生きるものなんだよ

同上

だから人とのかかわりを避ける生き方が選ばれるし,そのことについていろんなところで描かれるわけです.

僕にいわせれば,生きることは他人に干渉することなんです.それを理解しない限り,人が大人になることは決してない.特に恋愛はその最たるもので,それが今回の映画が恋愛映画である理由でもあるんです.
〔中略〕
恋愛というのは,非常に危険で恐ろしいものなんですよ.〔中略〕かつてのヨーロッパ映画は,トリュフォーにしろゴダールにしろ,最後はどちらかが死ぬしかない.もしくは共に滅びるしかない,そういう恋愛を一生懸命描いてきました.
〔中略〕
女の子とつきあわない人生があるとすれば,生きたことにはなりませんよ.この世に生を享けて自分自身がどうでもよくなる瞬間を体験しなければ,自分の人生を十分に生きたとはいえないと思います.

ナビ81〜82頁

これらの話を踏まえて再度本編の優一を見ると,水素との恋愛の先に不幸があるかもしれないこと(土岐野「草薙氏ならやめた方がいい(…)それこそお前,頭を撃たれてさようならーだ」),それを覚悟の上で彼は彼女を背負う決心をしたということになります.また,彼は自分の命を投げてティーチャに挑みますがそれは彼女たちのためでした.

不幸になる覚悟を持ち他人を背負おうと空に向かった劇中の優一で描かれたのは,人生に情熱の対象を持てないでいる,すなわち何ごとかに踏み込む勇気を持てないでいる若者の今ということになります.

ちなみに,水素の方もそんな優一を背負う決心をしました.彼女は彼の意志を引き継ぎ,何かを変えるために再び生きることにしたのです.そしてその道は劇中の大人たちが疲弊している様子に鑑みて(前回の「この世界の大人たち」),前途多難であるに違いなく,当然不幸になる覚悟が求められたはずです.本編ラストで,優一が帰ってこないことを受けて咥えていた煙草を戻すところに,人生が情熱の対象になったことが表現されていると見ることができます.

なお「不幸になることを含めて人生」という心の持ち方については,最近,「人生に無駄なことなんて1つもない」(『シン・仮面ライダー』)という台詞にも同じメンタリティーを感じたところです.いいことも悪いこともすべて抱えて生きていく.ここに思いがけないおじさんたちの「瞬間,心,重ねて」を見るのは私だけでしょうか.



4.昨日と今日は違う

(1)日常に耐えない

さらに押井さんはもう1つ異なる視点を提示します.

ある意味では自分がなぜ充たされていないのか.なぜ朝目が覚めた時に今日一日も楽しそうだとか、生きることが直ちにある種の充実感とか、達成感とか、喜びとか、そんなことはイメージ的に結びつかないことがあるとすれば、それはなぜなんだろうという…映画を作りながら実はそのことを考えていたわけ.

「スカイ・クロラ 誕生~新生・押井守、進む~」『Count down of Sky Crawlers Count1 Final』

「作りながら実はそのことを考えていたわけ」には後知恵感が漂いますが,とりあえず生きているのか死んでいるのか分からない現代人の心象を,当初は死生観から捉えようとした押井さんでしたが,切り口は異なれど現代人の「生の充実」について考えていたということのようです.

スタートとしては若い人に何か言わなきゃという切迫感があったんだけど、僕の中に.これはもしかしてもっと普遍的な話なのかなという気もしてきたんだよね.

〔キルドレは〕僕が映画館にいたときだけ生きてる気がしたのと同じなんじゃない.日常に耐えない.日常ってのは重たくて湿っぽくて息苦しくてなま暖かくて真綿で首絞められるようにツライ.いつの時代でも若い人は日常に耐えない.この日常が一生続くと思うだけで頭がおかしくなる.

NHK『映画監督 押井守 妄想を形にする』(2008)

先ほどの「朝目が覚めた時…」といった,ふとした日常における生の充実感の喪失もそうですが,ここでは日々の営みがルーティンと化したように見える停滞感,それが退屈で苦痛でならないこと,といった生の満たされなさが語られています.「死を想え」とは明らかに異なる視点であり,先ほどの「不幸になる覚悟」ともおそらく異なる切り口で「生の充実」を語っているように思えます.


(2)押井守の主張

そんな生の充実に関する言葉は次のものです.

それでも……昨日と今日は違う
今日と明日も きっと違うだろう
いつも通る道でも 違うところを踏んで歩くことができる
いつも通る道だからって 景色は同じじゃない
それだけではいけないのか
それだけのことだから いけないのか

これが,この映画のテーマであり,若い人たちに伝えたいこと.
たとえ、永遠に続く生を生きることになっても、昨日と今日は違う.木々のざわめきや、風の匂い、隣にいる誰かのぬくもり.確かに感じることのできるものを信じて生きてゆく——.
そうやって見れば僕らが生きているこの世界は、そう捨てたものじゃない.僕はこの映画を通して、今を生きる若者たちに、声高に叫ぶ空虚な正義や、紋切り型の励ましではなく、静かだけど確かな真実の希望を伝えたいのです.

アニメは10頁

引用最初の部分は劇中の優一の台詞です.

これも内容についてはともかく(!),個人的に気になるのは次のことです.それは,台詞に見られる確信はそもそも人生が情熱の対象となった者が得られるものでは,ということです.

すなわち,同じ道でも今日と昨日では違うということを実感できるのは結果であって,人生が情熱の対象になることと先後関係があるように思えます.

物語的にも,優一がこれを語れたのは,彼が水素を背負う覚悟が持ち人生が情熱の対象となったからでしょう.それ以前から彼がこうした視点を持った人物だとするともろもろ不都合が生じるはずです.

そうだとすると例えが卑近でなんともですが,ピーマンが苦手な子どもに美味しいと説く大人に似ています(そんな人いるのかという話ですがあくまでイメージ.またあくまで健康にいいからではなく美味しいから食べなさいという人.なおピーマンに個人的な恨みはありません).

舌の機能が大人と子どもで,あるいは個々人で異なる以上,彼(女)らが大人のように決して味わえないのにそれを無視してすすめるようなものです.当然,次の日からピーマンが美味しくなるはずもないですし,それを知っている子どもはそもそもそのような話を真面目に聞くはずもありません.

そういうわけで,押井さんが対象とした当の若い人たちがこの言葉によって急に明日からいつも通る道の景色が変わることはないでしょう.押井さんの主張に共感する人がいるとすれば,すでに彼とある程度視点を共有している方です.したがって,優一の「それだけのことだからいけないのか」という問題ではおそらくないのです.ちなみにこれらは「不幸になる覚悟」にも言えることです.

また,以上は冒頭で今回は宮崎監督とは違うと表明しておきながら実は同じ轍を踏んでいないかという疑問もあります.よりによって押井さんが1番伝えたかったところで.

——〔小黒祐一郎〕しかも、若者に伝えたい事があるとか言っていたけど、若者に対して上から目線だ!
西尾 はっはは(笑)。

WEBアニメスタイル「西尾鉄也が語る『スカイ・クロラ』あれこれ」第1回(2008年8月19日)

上から目線かはわかりませんが,同じく違和感を感じた方はいたでしょう.冒頭で宮崎監督と違って後ろからささやいてあげると言ってはいますが,結局"オレの考える最強"が出ちゃっていないか.もっとも,これは人に何か言葉をかけてあげることがいかに難しいか,ということでもあります.

さらに,主張を直接主人公に語らせたという演出面も気になります.素人目にいっても台詞にする以外に,瑞稀と犬が戯れている様子や木の葉のざわめきに水素が目をやるといったようにいろいろ手はあったはずです.おそらくあえて台詞で言わせているわけですが,そこにどのような意図があるのか気になるところです.

ついでにもう1つ気になる点は,そもそも劇中で表現される"繰り返し"は2つあります.1つは退屈な日常のそれ.もう1つはキルドレが生と死を永遠に繰り返すことです(ループ).個人的には後者の秘密を知ったことによる彼らの苦痛・絶望の方が印象が強かったため,退屈な日常に関するこの優一の台詞は唐突でした.ユーイチ今何の話?という.

脱線気味に言いたい放題しましたが,そもそも彼がこのように処方箋を渡すような行い自体,「若い人に何か言わなきゃという切迫感があった」という特殊事情を背景にした特殊な行いであることは知っておいていいかもしれません(たとえば,当時その現代の若者には実の娘さんが含まれていたこととか).そういうわけで,個人的には処方箋部分はいわばサービスだと思うことにしています.

あくまで筆者にとってこの作品で関心があるのは,「現代人の生の充実」という主題を複数の切り口で作品に落とし込んだことであり,そのことが作品に漂う平板でどこか重たい空気として伝わってくることです.以上を踏まえて本編を観るとまた何か発見があるのではないでしょうか.

本作の主題「生の実感/充実」への切り口まとめ
①死と現代の平和
②不透明な時代(の閉塞感?)
③変わり映えのない日常(の息苦しさ)




5.おわりに

それでは最後に前々回からの積み残し,本編最後に優一と水素が「何かを変えよう」としていたことに触れたいと思います.

彼(女)らが変えたい「何か」とはキルドレに過酷な運命を強いる何かであり,それはこの世界の戦争を規定する力,摂理というべきものでしょう.

こうした観点からすると,この作品はこれから何十年あるいは百年と続く,「何か」を変える革命史の前史,あるいは第一幕としてみることができます.この世界に疑問を抱き行動を起こした最初の2人の物語.

ちなみに過去の考察を踏まえて本作を「抗い」の物語と理解する立場からすると,水素=魔女/フーコ=フクロウというのは逆にした方が良かったのではないかと思うところです.フクロウを魔女の使い魔との理解を前提にすると,魔女=フーコ/フクロウ=水素とした方が,狂った世界を変えることのできない大人が希望をキルドレに託すといった図式に上手くはまるでしょう.まあ大人たちが変革を意図して送り込んだのが水素たち,というわけではないのが難点ですが.

さて,このようにどうすることもできない理不尽に対する抵抗あるいは反逆,さらには運命に抗うこと.そうした精神が作品の奥底に流れていることに押井作品らしさを確認することも許されましょう.こうした(大人の)闘いは過去の押井作品にも織り込まれてきたところです.

同じ印象は,先ほどこっそり仲良ししていた庵野秀明氏の作品(特に最近のもの)にもみられます.いずれも「抗い」を作品によく持ち込みます.

庵野さんについては『まどマギ』(2011)のほむら暁美推しという点にもそのことが表れていますし,『シンエヴァ』も神への叛逆を物語の基礎としていました(「続・ナウシカの続きとしてのエヴァ」).

もっとも,その「抗い」について押井さんに言わせれば庵野さんは自分と異なるようです.これはあくまで押井さんの視点ですが,前回紹介した彼の「何者かになること」の議論を踏まえれば,押井さんは庵野さんが監督業において世の中に対して確固としたリアクションを起こしていないとみています.

押井さんの中で映画を作ることは時代や世の中にケンカを売る行為であり,そういう動機を持つことが必須なのですが,庵野さんにはそういった動機が全く感じられない,だから庵野は自分とその周辺しか語らないし作品が私小説のようになると理解しています.もっとも,動機がないからダメという話ではなくて,押井さんは世代やスタンスの話としてこれを語ります.宮崎駿と自分はそうだけど,庵野や細田守や新海誠はそういうスタンスではないと(以上につきメルマガ「押井守の あの映画のアレ、なんだっけ?第45回『シン・エヴァンゲリオン』について聞かせてください!」(2021年4月20日)も参照).

この指摘に乗っかるなら,庵野さんの描く「抗い」は,世の中に対してではなく,あくまで個々人に課せられた運命に対するものというニュアンスがなきにしもあらずかもしれません(射程が個人の救済).この点が宮崎ー押井ラインとその下の世代(個人の救済世代)で異なるというのですが,興味深いお話です.

話を戻して,押井さんと庵野さんはこの世界で「生きる」とはどういうことかにも取り組みました.押井さんは本作でそれをやりましたし,庵野さんも特にエヴァ新劇場版でそれに触れたでしょう.仮にそうだとすると,彼らの中で「抗うこと」と「生きること」には強い結びつきがあることになります.

こうなってくればやはり2人の共通の師匠,宮崎駿氏が想起されます.本作で押井さんは宮崎監督を非常に強く意識していました.「よく生きる」というのはあまりに普遍的なテーマですから作家寄りの監督なら避けて通れない観はありますが,それが「抗い」と結びつくとき,宮崎氏との関係が気になるところです.


今回は以上になります.

映画『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』は公開から15年が経ちます.過酷な運命を生きる主人公らの生き様は過酷な時代を生きる現代人にどう映るのか.あのときと今で観る人の感じ方は異なるのでしょうか.

このたび複数回にまたがって作品と押井さんの意図について整理しましたが,これらはあくまで私なりの整理です.関心がある方は各自書籍に,そして作品自体に手を伸ばしご自身の目で確かめていただければと思います.

そして本記事が皆さんが作品を語り合う一助となれば幸いです.最後までお読みいただきありがとうございました.


・参考文献
『押井守ワークス+スカイ・クロラ』別冊宝島1546号(2008年)
『スカイ・クロラ ナビゲーター』(日本テレビ,2008年)
押井守編著『アニメはいかに夢を見るか』(岩波書店、2008年)


画像:©2008 森博嗣/「スカイ・クロラ」製作委員会


※追記(2024/7/21)
主題への切り口の変遷(企画段階とそれ以降)を明確にすべく文章を見直しました.

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