【スカイ・クロラ考察】草薙水素は死なない
今回は,水素の生還から作品のテーマに迫りたいと思います.以前の記事で余談だった部分を,映画公開15周年を機に内容を新たに独立させました.
1.生還の意図
水素は劇中でティーチャに挑んだにもかかわらず,比較的軽傷で生還しました.空で彼に出会い,生きて帰って来られたのは彼女だけです.
これには意味があると押井さんは明かします.長いですが引用します.
水素の生還が作品の主題につながっているなんて思いませんでした.というのも,彼女なら運が良ければ生還するかもしれないと思わせる事情が一応あるので.
しかし,押井さんによるとそうではなくて,さらにティーチャとしては水素生還は意図的だったとのことです(同17頁).これはどういうことなのか.以下,具体的に作品に立ち入って解説を試みます.
2.原作の変更
少し遠回りになりますが,まずは原作からの変更点を確認することから始めます.次の原作の2つのシーンはいずれも水素と優一の会話です.
引用箇所によると原作では自分の運命に干渉したい水素と,他人に関わることを避けたい函南優一が描かれています.映画ではこれらに変更が加えられ,一部は次のシーンに姿を変えます.
(1)自分の運命
1)原作の水素
引用箇所を整理します.すなわち,これらは自分の運命/他人の運命,それらに対する干渉の有無という観点から整理できます.
まず,小説と映画に共通するのは水素が"他人の運命に干渉"することを覚えていることです.他人の運命への干渉とは,さしあたり水素が優一の前任者・栗田仁朗の命を終わらせたことを指します.
次に両者で異なる点は,水素が"自分の運命に干渉したか否か"についてです.原作で彼女はキルドレという生の在り方に対し,死を持って自らの選択としたいという願望を持っていました.そして優一に自分を殺すよう頼むのです.つまり原作では願望にとどまり,干渉できずにいたということになります.
これに対し,映画だと水素は自分の運命に干渉を覚えたと笹倉が指摘していました.これは実際に干渉したということでしょう.
この違いについて見ていきます.まずは干渉できなかった原作の水素から説明しましょう(以下ネタバレ御免).原作は複数巻にまたがるシリーズもので,物語の時系列としては,実は第1巻『スカイ・クロラ』が時間的最後に位置します.第1巻の司令・草薙水素が,実は別人が草薙水素になりすましていたことがシリーズ後半で判明するのです.そして第2巻以降のパイロット・草薙水素は訳あって第1巻では函南優一として生きていたことになります.
すると,原作の水素(第1巻の司令・なりすまし水素)というのは,キルドレという運命に加えて,草薙水素として生きることまで強いられていたことになります.
ここでは,他人へのなりすましを強いられていたという点で,彼女は自分の運命に干渉できないでいたことに注目します.これも彼女が「人並み」を望んでいた理由であり,自分の運命に干渉したいという願いの背景と考えられます.そして彼女にとってこの呪縛を解くこと,すなわち自分の生を生きるために,悲しいかなその生を終わらせることを選択するのでした.
2)映画の水素
それでは,映画の水素が自分の運命に干渉することを覚えていたことについて掘り下げていきます.
先ほど押井さんは「水素は子供とか色々背負っている」と言っていました.彼は水素の人生における娘・瑞季の存在を重視しています.
ここから次のような予測が立ちます.瑞季を産んだことが水素のキルドレとしての決断であり,彼女が自分の運命に干渉したことを意味するのではないか.
なぜ妊娠・出産が運命への干渉の様相を帯びるかといえば,一般にそれが人生において重大な出来事であることはもちろん,加えてこの作品世界において特別な意味合いがあるからです.
どういうことかというと,まず劇中で水素と瑞季は表向き姉妹という扱いでした.これは世間的に2人が親子とは認められないことの裏返しといえます.先ほど引用した三ツ矢と笹倉のシーンの直前には,三ツ矢が「草薙は破綻している.子どもが子どもを産んでいる」旨を笹倉に訴えており,水素と瑞季の異常性が端的に説明されています.そういうわけで,子どもを持つといった人並みのことがキルドレの場合はイレギュラーなのです.
これを踏まえると,水素は出産によってキルドレとしての一線を超えたことになります.すなわち,キルドレという決められた生に対して異議を申立てたことを意味するので,上述の原作水素とは異なって映画では自分の運命に干渉したことになります.
(2)他人の運命
続いて,映画における"他人の運命への干渉"について掘り下げていきます.先ほど,優一の前任者・仁朗に関して原作の変更はないと述べました.しかし,その"他人"におそらく含まれるもう1人の人物,函南優一についてはどうか.ご存知の通り,原作の優一は水素を撃ちますが映画では外すという変更がありました.
1)水素
この変更は映画で水素と優一の結末が異なることとセットで理解できるものです.映画では水素は生きますが優一は戦死します(原作だと結末は2人で逆).これについて先ほどの押井さんの言及を再度引用します.
押井さんによると,2人の結末の違いは「人とのかかわりの深さ」の違いのようです.劇中で優一をはじめキルドレたちは戦死していくわけですが,そんな中で誰かとかかわり誰かを背負った水素だけは,その人とのかかわりの深さゆえに死ぬことができないようです.
したがって,水素と瑞季については次のようにも理解できます.すなわち妊娠・出産はこの世に生を受けるという産まれる者にとって決定的な出来事であり,産まれてくる者を背負っていく決意なしには行えないことです.
妊娠・出産自体から離れても,この2人の関係は,自分が面倒をみなければいけない,自分の世話が必要なくなるまでは死ぬことはできないといった感覚で理解できる関係ともいえるでしょう.
いずれにせよ水素は瑞季を産むことで瑞季(他人)の運命に干渉した.水素は背負った娘によって生かされているという関係になります.このように妊娠・出産に関しては,瑞季に着目すると「自分の運命への干渉」のみならず「他人の運命への干渉」という観点からも見ることができそうです.加えてもう一点.
押井さんによれば「誰かとかかわることが生きること」,誰かを背負った者は生きていくものとも言っていました.あのシーンで水素は何かを変えたい優一の志を引き継いだといえます.これも誰かを背負ったことに当てはまるはずです.
以上の2点から,水素の結末は変更しなければならなかった.
2)優一
さて,その函南優一について一点,押井さんの解説を再び引用します.
水素と結末が異なるけれど,彼で描きたかったこともまた「人とかかわることが生きること」です.それまで死んでいるのか生きているのかぼんやりとしていた主人公が,水素と(再び)出会い,愛し,彼女を背負おうというしたことは「生きよう」としていたということ.
3)仁朗
ついでに栗田仁朗にも触れます.これまでの議論からすると,水素は仁朗の運命に干渉することで彼を背負ったといえることになります.押井さんは次のように言っています.
この「自分の背負っている過去」とは仁朗のことです.キルドレの秘密,すなわち永遠に生と死を繰り返していることに気づき,絶望した仁朗を終わらせてあげた.先ほど水素は「色々背負っている」と押井さんは言っていましたが,その「色々」には優一や瑞季に加えて仁朗も含まれています.
3.人とかかわること
(1)草薙ダイハード水素
さて,ようやく冒頭の水素の生還に戻ります.これまでの議論からすると,水素とティーチャの関係においても「人とかかわること」の話が当てはまりそうです.彼も水素との間に子を持ったことで,水素と瑞季2人の人生に深く踏み込んでいます(キルドレとしての水素の"破綻"に関する責任).彼自身,背負っている者がいるため死ぬわけにはいきません.
その一方で,背負ったその人に手をかけることもまたできない話なのでしょう.一度背負った人とのかかわりを断つことはできない(あるいは断つ"べきでない")ということなのかもしれません.
あれだけキルドレを殺し続けている彼でも水素を殺すことはしなかったのは,彼が彼女を背負っているから.押井さんは死にたがる水素をティーチャは拒否したと言っていました(宝島17頁).水素の生還は偶然じゃないと言っていたのは,それがティーチャの意図だからであり,これまでの議論を踏まえるとそこには背負った人とのかかわりは安易に断てないということを読み取れそうです.
以上,水素が生還した理由から作品の主題(の1つ)を追ってみました.
(2)生きること
さて,ここまでの「人とかかわること」を作品のテーマとしてまとめたいと思います.まず,原作にあった「他人の運命に干渉する」ことについて,押井さんは他人に深く踏み込むこと=他人を背負うことと捉えます.そのとき人は他人に生かされている.生きなければならない関係に入る.
そしてこれは「人は1人では生きていけない」という普遍的テーマにつながります.
言い換えれば,彼は「人は1人では生きていけない」の1つの理解として「人とかかわり人を背負うことで逆に生かされている」人間模様を捉え,それを作品に昇華しようと試みたといえます.
いろいろ背負うことで人の人生に深く踏み込んだ水素は,彼(女)らに生かされている,生きなければならない状況にいる.水素が死のうとしても周囲がそれを止めるところまで描かれました(優一,ティーチャ).
この作品は,人が人と深くかかわることで働く力学のようなものを捉えます.この力によって人は生を紡いでいる.人によっては絆という言葉や,責任という言葉で語られるものに関わるお話になります.
(3)背景
さて「誰かとかかわることが生きること」という主題の背景について紹介します.
劇中で優一が「〔僕たちキルドレは〕大人になれないんじゃなくて,ならないんだ」と瑞季に告げます.この「大人」の理解が曲者ですが(次回記事予定),少なくとも上記発言からは他人に干渉することもされることも好まないからキルドレは大人ではないんだという意味が含まれていることがわかります.
4.結びにかえて
最後にもう1つ触れておきたいことがあります.
(1)2つのラストと蛇足
優一の生まれ変わりが登場するエピローグ(エンドロール後のシーン)はプロデューサーの石井朋彦さんが追加を要望したものです(押井言論327頁註18).これが説明的で押井作品らしくないという評価もあったようですがそれはプロデューサー側も承知のうえで足しています(ナビ75頁).
まずはどうして蛇足なのかみていきます.
2人の物語を簡単におさらいすると,水素は元パイロットなので飛行機に乗れますが基本的に司令官です.なので2人の出会いと別れは優一が空で死ぬことで繰り返されてきました.すなわち,水素のみが一方的に喪失を繰り返し絶望していたことになります.その苦しみから逃れるために自分を撃つよう頼みますが,優一に背中を押されて絶望から一転し,再び生きることになりました.
本編,エンドロール直前のシーンで彼女がいったん煙草を咥えたものの吸うのをやめる描写があります(本来のラストシーン).
「愛する人を失い煙草をやめた…これは壮大な禁煙映画だ!」とは庵野秀明氏の評です(パンフ60頁).
劇中でキルドレはやたら煙草を吸っています.煙草は退屈しのぎとして描かれているようです(同58頁参照).ここに先ほどの日常の退屈=苦痛を当てはめられます.すなわち,退屈しのぎの煙草はいわば苦痛緩和剤のようなものと理解できます.
すると水素が吸うのをやめたというのは,煙草が必要でなくなった,つまり日常が退屈なものではなくなったことを意味します.押井さん的には,彼女にとって人生が情熱の対象になったことの表現というわけです.
追加シーン(エピローグ)でこれに対応するものとして,優一の後任を迎える彼女の顔が明るいことが挙げられます.
この表情の変化に,観る者は希望を感じ取れるようになっています.彼女の変化の中身はおそらく上述の煙草で述べたことと同じ,すなわち繰り返しになるので説明的となります.
ちなみにエピローグ追加の経緯は石井さんが明かしており,他にも重複があることに気づかされます.
エピローグは,優一の生まれ変わりであるヒイラギ・オサムと水素の出会い(再会)で閉じます.劇中で三ツ矢が「貴方はジンロウの生まれ変わり」と告げた時点で,最初の優一と水素の対面が実は再会だったことが遡って明らかにされるのでヒイラギとの出会いも繰り返し,再演になります.
(2)何かを変えたい
さて水素だけでなく,優一も最後に生きようと命を燃やした点に自身の変化が見られました.ここでは2人の変化が2人が何かを変えようとしていたことに絡めて描かれた点に注目します.
優一自身はティーチャに挑むことで何かを変えようとしました.終わらない戦争を支えるルール,絶対に倒せない敵の存在を葬ることで.
対する水素はすでに瑞季の出産によって何かを変えようとしていたと捉えることもできますし,あるいは組織に身を置きながら変革を,ということかもしれません.彼女はキルドレでありながら司令を務める特別な存在だからです.
水素を愛し,彼女を引き受け,何かを変えようと空に向かった優一.彼を引き継ぎ何かを変えるために生きることにした水素.2人の結末は異なれど同じ方向を向いていました.
今回は以上になります.最後までお読みいただきありがとうございました.
映画『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』は公開から15年が経ちます.本記事によって皆さんの鑑賞、考察等が捗れば幸いです.
次回は劇中の大人たちからこの作品を考えます.
・参考文献
『押井守ワークス+スカイ・クロラ』別冊宝島1546号(2008年)
『スカイ・クロラ ナビゲーター』(日本テレビ,2008年)
押井守著・アニメスタイル編『スカイ・クロラ絵コンテ』(飛鳥新社,2008年)
押井守編著『アニメはいかに夢を見るか』(岩波書店,2008年)
押井守『押井言論2012-2015』(サイゾー,2016年)
画像:©2008 森博嗣/「スカイ・クロラ」製作委員会