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無駄に生きるな、熱く死ね

感想を投稿しなかった理由

先日最終回を迎えたドラマ『だが、情熱はある』。
かつて若林正恭のエッセイを読み、泣き、笑いながら自分の生きづらさに対する一筋の光を見つけた私。
そして、『たりないふたり』によって己のたりなさを肯定し、醜く、愚かな私が社会を生き抜くための情熱を与えてもらった私。
このドラマを観ないわけがなかった。

第一話から最終話まで毎週感情が揺れ動き、魂を揺さぶられたり涙を流したりしていた。
あれほど感情が動けば毎週noteに感想を書きたくなったものだが、私は今日までこのドラマについて全く触れてこなかった。

その理由は、「食らいすぎたから」である。

ドラマに限らず、本、映画、音楽、さらには景色や人との出会いなど、大きな打撃で心を揺さぶられたものは独り占めしたくなる。
人におすすめしたり人様に見せる文章を書いたりすると、その時の感情の一部はフィルターを通れずに欠けてしまう。
心を揺さぶられた瞬間の感情は、外部に発信せずに体の芯が熱くなるような感覚になるまでただひたすら反芻させ、自分と向き合う貴重な時間を噛み締めたい。

『だが、情熱がある』の内容は、エッセイやラジオ、テレビ番組からの情報で、2人の半生について知っていることが多かった。
しかし、実力ある俳優陣と熱意あるスタッフの皆さんによるリアリティ溢れる作品を前にすると、自分と重ね合わせて尊敬する点や過去の反省点、教訓などが、ナイフのような刺激としてダイレクトに心に突き刺さる。
その跡には絆創膏を貼るでもなく、縫合するでもなく、そこから流れる血をただポタポタと垂れ流し、ゆっくりと時間をかけてかさぶたを作っていく過程を眺めることで生命活動の熱さを噛み締めるような感じだ。

そして放送後時間が経過して分厚いかさぶたが完成した今、ようやく感情を文章に変換する作業を通して心を整理するという次の段階に移行できている。
これまでドラマを観ただけではこれほど食らってしまうことなんて無かったのだが、やはりこの2人に対する私の思い入れは自分が思っているよりも深いようだ。


戦え、進め

では本題。
最終話まで視聴し、毎週のように感じていたのは「戦い続けなければならない」だった。
なにも競争社会で身を削り続けなければならないというのではない。
自分の理想と向き合い、そこへの道程を定め、妥協なく遂行する、ということだ。

オードリーと南海キャンディーズがメディアに出るようになった裏には、情熱を持ちつつも夢敗れた者たちが数えきれないほどいる。
社会の現実を考慮すれば私も夢を追うなんて軽々しく言えないのだが、常に理想を見据えて心を燃やし続け、前に進み続ける情熱を持たないと人生が空っぽになってしまうと思う。

私は昔から自分に甘い人間で、努力を継続できない人間だった。それが、2人のエッセイを読むようになり、少しずつではあるがそんな弱い自分に負けたくないという感情と共に行動を起こせるようになってきた。
今回のドラマ化は、その気持ちをもう一度思い起こさせてくれた。


「ねぇ、今幸せ?」

そう聞かれたら、私は「はい」と答える気がしている。

私が本当にやりたいこと、カッコつけていうと「夢」は手にしていない。
それでも、夢に向けて心が燃えている今は、後から思い返すと幸せであったと振り返れると思う。

これまでの私の人生は敗北続き。
勉強もスポーツも恋愛も上手くいかない。
敗北に慣れて、いつからか他人への劣等感すらも感じなくなってしまったほどだ。
今は他人よりも、自分自身に負けたくない気持ちが強い。

命の鼓動を脳の奥で味わいながら、血を流し、傷跡を作りながら前へ進む自分であり続けるためには、やはり情熱が必要不可欠だろう。
情熱は全ての源だ。

情熱を燃やし、命を燃やし、灰だけを残して死ぬ。
その人生の終わりは、きっと華やかで鮮やかだ。


このドラマは、全ての戦う者に勇気と活力を与えてくれたと思う。

掴んでみせるさ夢舞台。
私たちの戦いは、こっからまた始まるのだ。


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