名張と能楽 第四回 『上嶋家文書』の紹介 江戸時代の系図か昭和になって創作されたものか
今回紹介する『上嶋家文書』とは、昭和32年11月以降に伊賀市在住で、郷土史家であった久保文雄(本名:文武)が学術雑誌に投稿した観阿弥・世阿弥に関する江戸時代の系図類を言います。
観阿弥の母親は楠正成の姉であり、観阿弥の奥さんは播磨の永富の娘で、名張の竹原大覚の養女となった人だという系図で、当初から能楽学界では認められず、日本史の研究家や小説家や梅原猛に評価されるという運命の系図でした。
つぎに、『上嶋家文書』のトピックスを9点あげます。
1.吉川英治の『私本太平記』(昭和33年1月より毎日新聞に連載開始)、杉本苑子の『華の碑文―世阿弥元清―』(中央文庫、昭和52年)、秋月ともみの『観世三代記 秘すれば花―歴史の襞にかくれた一族―』(ぶんりき文庫、平成13年)が参考にした基本文書です。
2.鹿島守之助(鹿島建設の元会長、参議院議員、鹿島家の養子、播磨の永富家出身)に、彼が世阿弥の母親の子孫であることを認識させ、各地の能楽堂建設援助や名張市小波田の観阿弥創座の碑建設援助や伊賀市の世阿弥公園と世阿弥の母親の像の寄贈に向かわせた文書です。
3.NHK歴史ドキュメント「謎の能面」(昭和61年2月)で『上嶋家文書』と上嶋家がテレビ放映されましたが、これが『上嶋家文書』が公開された最後でした。
4.『楠公―その忠烈と餘香』(平泉澄、鹿島研究所出版会、昭和48年)で、著名な歴史家平泉澄は『上嶋家文書』を評価しています。
5.「世阿弥を紀行する」(『太陽』昭和51年3月)で杉本苑子は『上嶋家文書』を評価しています。
6.尾本頼彦が、はじめての能楽に関する論考『伊賀の上嶋家文書再検』を完成し、平成元年12月に私家版を梅原猛に贈呈しました。
7.『南北朝』(朝日文庫)、平成3年のあとがきで、著名な歴史家林屋辰三郎が『上嶋家文書』を評価しています。
8.平成18年に、梅原猛に「中世・能楽・観阿弥・世阿弥・上嶋家文書」が取り憑き、筆者は梅原猛と面会し、17年前の拙稿贈呈の目的を達成できました。梅原は『うつぼ舟Ⅱ 観阿弥と正成』(平成21年1月)で、『上嶋家文書』を評価し、香西精と表章を批判しました。
9.『昭和の創作伊賀観世系譜ー梅原猛の挑発に応えて』(平成22年9月)が表章逝去後に出版された表最後の出版物となりました。
つぎに、『上嶋家文書』の内容について特記事項を述べます。
観阿弥・世阿弥に関する正確な情報や新知見が掲載されています。
①足利義満が観阿弥の能を見た「今熊野申楽(いまぐまのさるがく)」と考えられる催しの開催年(1374)の記述。―学界の最有力説と一致。
②世阿弥の生年(1363)の記述―学界の最有力説と一致。
③世阿弥の息子元雅が津(三重県)で死去の記述―世阿弥著述の『夢跡一紙』の記述と一致。ただし、元雅は北朝の人に暗殺された記述になっています。
④観阿弥の実父の名前[伊賀国浅宇田領主上嶋慶信入道景守次男治郎左衞門元成]の記述。
⑤観阿弥の実母[河内国玉櫛庄楠入道正遠女] の記述。 ―系図上楠正成の姉
③観阿弥の妻(世阿弥の母) の記述。[播磨国揖保庄永富左衞六郎女、小馬多竹原預リ子、朝屋福北姪ナリ」[小馬多領主竹原大覚法師女]
―播磨の永富家の娘が名張小波田の竹原大覚の養女となって観阿弥に嫁いだ
⑥世阿弥の兄の存在の記述―通説:観阿弥の長男は世阿弥
⑦元雅の兄、元次の存在の記述―通説:世阿弥の長男は元雅
能楽史に登場する従来不明の人物[元次・五郎]の名を持った元雅の兄が存在の記述「元次 金花丸五郎源泉沙弥」
最後に、『上嶋家文書』の評価を述べます。ー昭和の贋作か江戸時代の信ずべき資料か
筆者、尾本頼彦が平成元年に作成した先述の論考(6)では、現代の能楽研究の成果で判明していることが書かれていて、江戸時代の資料であれば、贋作はむつかしいため、信ずべき資料であるとしました。
先述の表章の著述(9)は、『上嶋家文書』は明治時代以降昭和にいたる公知資料に基づいて贋作したものだと結論しています。
『上嶋家文書』を評価する人達は歴史家が多いのですが、文書にでてくる文政七年や寛政の年記に基づいて江戸時代の文書と信じて評価していますが、本当に江戸時代の文書であるかについて誰も調査していません。
しかし、表章は9の著述で、『上嶋家文書』のすべての記述が明治以降昭和までの公知資料に載っていることを実証して、昭和の創作(よくできた文書に敬意を表して贋作という言葉を使用していません)であることを力説しています。
筆者の意見を最後に述べておきます。『申楽談儀』第23条で、世阿弥は、観阿弥の曽祖父が「伊賀の国服部の杉の木」という人であると述べています。したがって、「伊賀の服部の杉の木家」に義満将軍に贔屓にされた有名人、観阿弥と世阿弥親子に関する正しい伝承が伝わっていたことは真実であると考えてよいでしょう。すなわち、伊賀は、江戸時代にも観阿弥と世阿弥親子に関する正しい伝承が存在した可能性のある地域なのです。この伝承は正しいのですから、明治以降昭和までの公知資料にすべて載っているのは当然です。ですから、表方式の論証では完全に証明したことにはならない可能性があるのです。つまり、決着をつけるためには、『上嶋家文書』の現物の時代鑑定が必要だと思われます。いつの日にか、文書の現物が公開され、時代鑑定がされることを祈っています。