【短編小説】壺
昭和の商店街。その一角に、雑貨店「中村商店」があった。店主の中村昭夫は、カウンターに肘をつき、外をぼんやり眺めている。
八百屋、魚屋、駄菓子屋―― どの店も朝から活気に満ちているというのに、自分の店だけは妙に静かだ。店内にただよう空気が、まるで湿っぽい古布団のようだ。
「はあ……」
ため息がつい漏れる。やる気も出ない。何の事件もなく平和だが、些か平和すぎてあくびが出るほどつまらない。
「なんか一発どデカいことが起きて繁盛店に…なんてことあるわけないよなぁ…。」
なんてうなだれる昭夫の目の先にあるのは、店の隅に置かれた一つの壺だった。
それは数日前、送り主不明の大きな箱に入って届いたものだ。開けた瞬間、手にひんやりと冷たさが伝わったのを今でも覚えている。
「なんだこれ……」と、何の気なしに店の隅に置いた。そうするのが自然に思えたからだ。まるで壺自身がそこに座りたがっているかのように感じる、不思議な感覚だった。
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翌日、八百屋のミヨおばちゃんがやってきた。買い物袋を抱えながら、「ちょっと寄ってみたのよ」と店に入るなり、目を丸くした。
「あらまあ!昭夫さん、この壺、例のご利益があるって噂のやつじゃない?」
「え?ご利益?」
昭夫は思わず聞き返す。
何を言ってるのか、このおばちゃんは。
「家内安全よ!隣町の友達、この壺を手に入れたら急に孫が生まれたって!」
「いやいや、そんな……ただの壺だろうが……」
と、言いかけた昭夫だったが、ミヨおばちゃんはすでに手を合わせて「ありがたや、ありがたや」と唱えている。どうやら聞いていないらしい。昭夫は唖然としてその様子を眺めた。
その後も、壺の噂は勝手に広がり始めた。
魚屋の佐々木の親父が「あの壺、商売繁盛に効くらしいぞ!」と、壺を撫でて帰っていったり、駄菓子屋のトモコおばさんが「若返りの秘訣よ!」と顔を覗き込んで鏡で自分の肌を確認し始めたり。通りすがりの中学生たちは、「壺を触ったらテストで100点取れるって!」と目を輝かせて駆け寄ってくる始末だ。
「……だから、ただの飾り物だって……」
昭夫は何度も否定を重ねたが、周りは全く耳を貸さない。それどころか、噂はどんどんエスカレートしていく。
「壺を拝んだら宝くじに当たったんだって!」
「いやいや、あれを一晩抱いて寝たら億万長者になれるって話だ!」
昭夫はその無茶苦茶さに頭を抱えつつも、どうにも止めようがなかった。
そのうち、商店街の会合で話題になり始めた。
「この壺、町のシンボルにしませんか?」
「そうだ、町のアイドル壺にしましょうよ!」
「ご利益壺巡りツアーもいいんじゃないか?」
皆が勝手なことを言い始め、会議室は熱気に包まれた。昭夫は溜め息をつき、「ただの置物なのに……」と呟いたが、いつもの通り誰も耳を貸さない。まるで昭夫の言葉など存在していないかのように。
その後、観光協会の職員が店を訪れる。「この壺を町の活性化に使わせてください!」と目を輝かせて言う。
「壺で願掛けイベントをやりましょう!全国から人が集まるかもしれません!」
「ええ……」
昭夫は返事に困りながらも、「だから、ただの――」と言いかけたが、職員の熱弁に押され、何も言えなくなった。
――なんでこんなことになってんだ……?
彼の頭の中は混乱しきっていた。
こんな事態から1週間後、骨董商の男が現れる。高そうな車でやってきた男は、皺ひとつないスーツ姿で、店の壺に目をやりながら歩み寄ってきた。
「中村さん、この壺、ぜひ買い取らせていただきたいんですが……」
「え、いや……ただの壺ですよ?」
昭夫は困惑を隠せない。
「いえ、この壺には特別な力があるんです。100万円で、いかがでしょう?」
「ひゃ、ひゃくまんえん!?」
昭夫の声が裏返る。心の中で噂の数々が渦巻く。
――いや、でも、まさか本物なのか……?いやいや、そんなはずは…。
自分自身にそう言い聞かせながらも、どこかで心が揺れているのを感じた。
噂はさらに広がり、ついにテレビ局のリポーターが店にやってくる。
「中村さん!こちらの壺、今話題になってますが、どんなご利益があるんでしょうか?」
周りにいた商店街の人々が、一斉に声をあげる。
「絶対に幸運を呼ぶ!」
「商売繁盛間違いなし!」
「恋愛成就だってさ!」
昭夫は肩をすくめて、「いや、本当に……ただの飾りなんですけど……」と答えるが、誰も耳を貸さないどころか、ますます盛り上がっていく。
リポーターは壺をもっと詳しく見ようとカメラを寄せる。
「この壺、細部も興味深いですね。中村さん、底の方も見せてもらえますか?」
「あ、はい……」
昭夫は仕方なく壺を持ち上げ、回してみせる。
その瞬間、周囲が「あっ!」と息を飲む。
壺の底には、くっきりと「980円」と書かれた値札が貼られていたのだ。
一瞬の静寂。昭夫も、商店街の人々も、リポーターも、値札をじっと見つめている。
――……結局、ただの安物じゃないか…。
昭夫は心の中でぼやきながら、肩の力が抜けていく。ふと、笑いが込み上げてきた。
静けさを破ったのは、佐々木の親父だった。
「ぷっ……あはは!やっぱり、ただの壺じゃねえか!」
それを合図に、周囲は一気に笑いの渦に包まれた。
「なんだよ!そうと知らずに、盛り上がっちまったじゃないか!」
「まさか、ただの壺に大騒ぎしてたとは!」
昭夫もつられて笑い出し、「やれやれ……」と苦笑しながら、心の中で何かがほぐれていくのを感じた。
子供たちが「おじさん、ただの壺だったの?!」と無邪気に駆け寄る。昭夫は彼らを見て微笑むと、「まあ、ただの壺でも……みんなが楽しめりゃ、それでいいか」とぽつりと呟いた。
暖簾を元気よく上げ、「さて、今日も一日、頑張るか」と気合いを入れる。
店の前を通る人々の笑顔、商店街の賑やかな声が、昭夫の背中を押すように響いていた。