私が会社を辞めて起業した理由①
東日本大震災から12年①
2011年3月11日14:46
東日本をマグニチュード9.0の地震が襲い、建物の崩壊や津波の被害が各地に起きました。
私は当時茨城県水戸市の駅ビルでアパレル販売員でした。その時は駅ビルの7階で勤務していました。
茨城とはいえ、その瞬間は震度6強だったと思います。
その直近まで震度3や4などの地震が頻繁に起きていたせいで、その地震も同じようにすぐおさまるものだと思っていました。
私はちょうど接客中で、お客様には春の新作のJKを羽織ってもらおうとしていました。
揺れ始め
お客様「あっ、地震だ」
私「いつもの感じですねー。すぐおさまりますよー」
といった瞬間、
「どん!!!」
という衝撃と、立っていられないほどの揺れが始まりました。
「お客様を守らないと」という意識が働き、床に固定されていた机を両手でしっかりと掴み、その間にお客様を抱きしめるようにしていました。まだ立っていたんです。
隣のショップの店員が「やっさん(私)、座らなきゃ!しゃがめ!」と声を掛けました。
私も「そうか」とお客様に「座ってください!」と言いました。
(お客様がここで椅子に座った、というのは後々の笑い話)
建物の上の階は揺れるんです。
耐震構造という造りですが、これは建物自身も揺れることで揺れを吸収し倒壊を防ぐための構造になっているため、相当揺れるんですね。酔いが発生するくらいです。
揺れが続き、トルソー(マネキン)がバンバン倒れました。
どこかでガラスが割れる音がします。
揺れが強いせいで棚に置いてあった洋服がどんどん落ちていきます。
いろんなところで悲鳴や叫び声がします。
電気が消えて真っ暗になりました。
この時はまだ、
「あー、服が全部床に落ちちゃった。汚れとか大丈夫かな」
「トルソーも倒れちゃった。壊れてなかな」
「結構大きな地震だけど明日営業できるかな」
何てまだ思っていました。真っ暗の中。
実は前日に防災訓練をしていました。火事や地震を想定し、停電のケースも訓練していました。
前日の訓練の際には
「停電しても非常灯は点くのでこのくらいの明るさはあります」と非常時の明るさも体験していました。その時は結構明るく、なにがどこにあるかははっきりとわかっていました。
それがどうでしょう。地震が起きた直後は真っ暗です。目が慣れていないせいもあって何見えません。駅ビルなんで各フロアに窓はありません。明かりがなくなると真っ暗です。エスカレーターの下の階から漏れる明かりがあるくらいです。
揺れがいったん収まったら避難開始です。
当然エレベーター、エスカレーターは使用できません。
お客様もたくさんいらっしゃっているのでお客様を誘導です。
この時に、元部下で別ショップで働いていたKはすぐにアウターを羽織り自分のバック(ボディバック)を持っていました。手際がいいです。
階段で降りていきましたが、この時は何が起きているかまだ把握できていませんでした。
駅ビルを出るとそこは水戸駅。
目の前はバスとタクシーのロータリーになっています。
停電なので信号も消えています。たくさんの人が建物から出てきて人があふれています。
見上げるとガラスが割れています。地面が隆起したり陥没したりして車も動きません。車を乗り捨てて避難する人も多くいました。
うちの会社に小さなお子さんがいる主婦の方がいたんですが、地震があった直後、すぐ車で自宅に戻ったそうです。まだ混乱が始まる前。母は危険を予感したんです。お住まいも海の方でした。実際に茨城も津波ありました。
当時の彼女も海沿いにあるアウトレットで働いていました。心配でした。でも電話がつながりません。いくらかけても。
みんな慌ててかけていたんで回線がパンクしてました。
また当時の会社の社長も現場にいたんですが、社長には家で待っている奥さんと生まれたばかりのお子さんもいました。
かなり長く悩んで生まれたお子さんだったんで心配だったと思います。私は奥さんも知っていたので何とかつなげてあげたいとも思い、奥さんにも電話していました。でもつながりません。