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やまとことばのたおやかさ

 和語(=やまとことば=訓読みの日本語)と「てにをは」をうまく使って、やわらかい日本語で語ろう。そこに日本語の細やかさがある。今どきの日本ではその方が人の心に響く。(←↑和語で書いてみた)

 「てにをは」を避けて漢語(=熟語=音読みの日本語)や英単語(=カタカナ言葉)を使う方が簡単だが、微妙なニュアンスを表現できない。ありきたりで読者のハートに届かない。(←↑熟語・英単語を多用してみた)

「が」と「は」の違い

 日本語で主語(主格)の後につく助詞の「が」と「は」の違いについて、学校でちゃんと教わった記憶はない。「どっちでもいい」とか「適当に使い分けろ」とか教わったような(?)気もする。
 けれども、その2つをボクたちは無意識のうちに厳密に使い分けているようである。たとえば、
   (a) 犯人 誰だ?
   (b) 誰 犯人か?
この2つはほぼ同じ意味だが、(a) の文の「は」を「が」で置き換えたら、俄然おかしい。(b) の文の「が」を「は」で置き換えても、やっぱりおかしい。置き換えた文は、日本人がしゃべる文ではない。
   (c) 私 やりました。
   (d) 私 やってない。
もそうだ。「が」と「は」を入れ替えたら、かなりヘンな日本語だ。

 さて先日、外国人に日本語を教えている先生(日本人)からこんな話を聞いた。外国人に教えるとき、
   「大事なものが前にあるときは を使い、
    大事なものが後にあるときは を使う」
と説明する、と。つまり、(A > B)なら「A B」となり、(A < B)なら「A B」となる、ということである。
 この説明、パーフェクトなんじゃなかろうか。(a) , (b) の文で大事なのは「誰?」という部分である。「犯人」という言葉はすでに前の文脈で出ているはずだから、この時点ではそれほど大事な要素ではない。
 (犯人 < 誰)だから (a) 「犯人 誰だ?」となり、(誰 > 犯人)だから (b) 「誰 犯人か?」となる。
 また、(c) の文では「誰?」に答えて「私だ」というのだから、(私 > やった)である。だから「私 やりました」となる。
 (d) の文では「お前か?」と疑いをかけられて「違う!」というのだから、(私 < やってない)である。だから、「私 やってない」となる。

 このルールに例外はあるのだろうか? 私には思いつかない。
   ◇ ゾウ 長い
もこのルールで説明できそうだ。
 そして例外なく通用するルールなら、日本語の文法として日本人向けの学校でも教えていいんじゃないか。

<P.S.>
何気に私が上に書いた、「置き換えた文 、日本人 しゃべる文ではない」にも当てはまりそう。

「てにをは」の罠

 「てにをは」は言葉に膨らみを持たせてくれるとても便利なものだ。けれども、それを日本語の「縛り」のように感じて、使いにくいと感じている人が多いようだ。そういう人は、むしろ漢語(熟語)や英単語を使いたがる。
 先日の出来事である。ある人が「地域コミュニティーの交流に貢献します」という文を書いてみたが、どうもしっくりこないと言う。彼から話を聞いて、私が提案した。
 「この地区で働く人、住む人、訪れる人の懸け橋になります」と書いたらどうだ、と。

 そうしたら彼は「てにをは がおかしい」と言う。「この地区 働く人、この地区 住む人、この地区 訪れる人」にしなきゃならないが、これじゃ「この地区」が何度も出てきて良くない。だったら「この地区の労働者、住民、訪問者」の方が自然だ、と。
 いや、そうでもないのである。「この地区」が「懸け橋になる」に係っていると思えば、まったく正しい使い方だ。

  ┌─ → ─┐
この地区で  働く 人、住む人、訪れる人の 懸け橋になります
  └───────── → ─────────┘

架け橋

 そうしたら彼はこう言った。「人は前から順番に読んでいくんだから、そんなふうには読まないだろう」と。
 いや、だからそれでいいのである。前から順番に読んでいけば「この地区 働く」となって、とても耳触りがいいのである。しかも文法的には「この地区 懸け橋になる」のだから、どこもおかしくないのである。
 和語(=やまとことば=訓読みの日本語)と「てにをは」をうまく使って、やわらかい日本語で語ろう。そこに日本語の細やかさがある。今どきの日本ではその方が人の心に響く。(←↑和語で書いてみた)
 「てにをは」を避けて漢語(=熟語=音読みの日本語)や英単語(=カタカナ言葉)を使う方が簡単だが、微妙なニュアンスを表現できない。ありきたりで読者のハートに届かない。(←↑熟語・英単語を多用してみた)

日本語に読点は要らない

 文の最後に打つ「。」を句点という。文の途中に打つ「、」を読点という。2つあわせて句読点という。
 句点はあった方がいい。でも絶対に無きゃいけないというものではない。いざとなったら無くても何とかなる。
「句点が無くても困らない スペースを開ければいい それでちゃんと読める」と書いてもまぁわかる。
「句点が無くても困らない
 一文ごとに改行すればいいじゃん
 無駄に行を浪費することになるが」
と書く方法もないわけではない。でもさすがに「句点なんか要らない詰めて書いても読めるほらね文句あるか」というのは読みにくい。だから句点はあった方がいい。でもそんなことはどうでもいい。当たり前のことだから。

 問題は読点である。読点は要らない。これは本当である。実際に私はこの記事で読点を使っていない。
 でもちゃんと読めるはずだ。読点を打った方がわかりやすいという部分もないと思う。確かに記事の1行目で「、」と書いた。でもこれは読点を説明するためのものだ。句読点のうちどっちが句点でどっちが読点かわからないと困る。だからそう書いた。
 でも記事の他の個所では読点を一切使わないことにする。日本語に読点が要らないことを証明するために。

 読点を打たないで文章を書くにはどうすればよいか。答えは簡単である。文章を短く切ればいいのである。
 けれどもそれを実行するのは案外難しい。そのためには論旨をクリアにしなければならないからだ。要するに文章を切るとごまかしが効かなくなる。むしろ文章をつないで書く方がよっぽど簡単である。論旨があいまいなままでも書けるからだ。つまりダラダラ書けばいくらでもごまかしが効く。
 読点は2つの文をつなげて1つの文にするときに使うものだ。2つの文の境目に読点が入るのだ。
 元の2つの文が明確であるならそれでよい。それなら2つに分けても1つにつないでもどちらでもよい。けれども多くの場合の読点の使い方はそうじゃない。単に切れないからつないで書いているにすぎない。切ったら論がつながらなくなる。だからいくつかのことをつなげて書く。そうすれば話がつながっているように見える。だから読点を打つ。これが実態だろうと思う。

 誤解のないように書いておこう。私は「読点を打ってはならない」とは言っていない。「読点が無くても文章を書ける」と言っているのである。そして「その方が良い面もある」と思うのだ。
 ここで提案。読点を使わずに文章を書いてみたらどうだろう。そうなると文章を切るしかなくなる。すると無駄が省ける。そして論旨が明確になる。読み手にとっても読みやすくなるだろう。良いことづくめじゃないか。
 その上で2つの文をつなぐときに限って読点を使ってもよいことにする。ここに至って初めて正しい読点の使い方になるってもんだ。
 もちろん無理してつなげる必要はない。2つの文に分けたままでも構わない。そんな作文トレーニング法ってけっこう効果的なんじゃなかろうか。

◇      ◇      ◇

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