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カルマの塔とセカイ系について【メモ】【ネタバレあり】

筆者が愛して愛して止まないカルマの塔というネット小説を改めて読み返して気づいたが、あの小説の恋愛パートは、いわゆる「セカイ系/ポストエヴァ」における最終回答の一つであり、平成サブカル史の到達点の一つとして捉えられると思う。ヴィクトーリアとルトガルドがなぜ死ななければならなかったかを考えていて気がついた。

「セカイ系」というタームを端的に説明すると、少年/少女の運命がセカイの命運と直接的に結びついており、世界か少女かを選ばなければならない、といった構造を持つ作品の類型のことである。エヴァンゲリオンおよび後続作品群を総称して名付けられ、思春期的でキモいとの批判を受けることもありながら、未だに青少年の心を掴んで離さない。

カルマの塔のヴィクトーリア/ルトガルド殺しについて改めて考える。あらすじを過度に単純化すると、以下のようになるだろう。ウィリアムは「セカイ」のために愛を切り捨てるか否かの二択を突きつけられ、最後には最愛殺しを選択する。愛を切り捨てたウィリアムは「王」の資格を得る、といったものだ。よくよく考えるとここでは、「セカイ」の命運が、ウィリアムという「反射板」を通して最愛たちの運命と直接ドッキングしており、正にセカイ系の典型となっている。構造としては、キョンが「反射板」となって涼宮ハルヒの命運とセカイの命運が直接結びつく、『涼宮ハルヒの憂鬱』に近い。

また、カルマの塔/アストライアー世界は「羊飼い」という特別なタームに象徴されるように、選民的、陰謀論的な世界観を基礎に置いている(筆者は富士田先生のファンではあるが、こうした世界観には与しないことを断っておく)。こうした世界観について、筆者は読みながら疑問を抱いていたが、これもセカイ系的な文脈に結びつけるとかなり納得がいく。

ウィリアムに限らず、カルマの塔世界で「王」として君臨するものたちの思考は、ある種誇大妄想的(自分が特別優秀であると言うエビデンスや実績はあるものの)であり、その自罰的感覚や自らを「セカイ」の命運と結びつく例外存在とする思考はおよそ狂気に近い。その狂気によって「セカイ」と愛が釣り合って"しまった"のが、カルマの塔の正体といえる。「例外」が王である自らにとって毒で、すなわちセカイにとっても毒という価値観は狂気そのものだが、作品では実際にヴィクトーリア殺しによってウィリアムが王に至った。また、主人公がセカイを変えようという決意に至るまでのストーリー展開も荘厳な美しさに満ち満ちていて、彼の運命に涙せざるを得ない。そもそも『カルマの塔』という作品自体ほとんど狂気に近い。今でも理解できないのは、王会議編あたりから愚者の鎮魂歌の辺りまで、文章自体が常軌を逸しており、文体からしてほとんど詩と変わらないような強烈な業物の匂いを放っていることだ。ストーリー展開の説得力もあいまり、文体の狂気に呑まれて、明らかに狂った主人公の選択を、逃れがたい別離として錯覚してしまう。エヴァンゲリオンは同様の離れ業を庵野秀明氏の作家性によって成したが、「カルマの塔」でも同様に物語の説得力と作者の作家性によってそれが為された。

『カルマの塔』は戦記物、バトル物としても十分傑作だが、やはり怪作としての評価を決定づけたのは最愛殺しとなるだろう。筆者も疑問に思って調べてみたが、主人公が確固たる意思をもってメインヒロインを殺すと言う展開の作品は、カルマの塔以前にも以降にも存在すらしなかった。狂気そのものである。そしてその狂気は愛と光に満ちており、それこそが筆者が『カルマの塔』を生涯のバイブルとして信奉する理由である。


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