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北九州キネマ紀行【小倉編】私は映画「無法松の一生」の撮影現場で仕事をした〜小倉在住の映画プロデューサー・田中壽一さん(元東宝社員)が語る撮影のこと|そしてもう一つの〝北九州映画〟「宿老」
「無法松の一生」は小倉が舞台
北九州を代表する映画といえば、小倉が舞台の「無法松の一生」。
この作品は何度も映画やテレビドラマ、舞台になった。
中でも代表的なのは、稲垣浩監督の映画。
稲垣監督は「無法松の一生」を2度映画化した。
最初は戦時中の1943(昭和18)年公開の阪東妻三郎主演のもの(大映)。
もう一つは自らリメイクした1958(昭和33)年公開の三船敏郎主演のもの(東宝)。
昭和18年版は、いくつも作られた無法松映画の最初のものであり、今も日本映画の名作の一本に数えられる。
昭和33年版は、ベネチア国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)を受賞し、大きな話題を呼んだ。
この昭和33年版の撮影現場で仕事をしていた人が小倉にいる。
元東宝社員で、映画プロデューサーの田中壽一さん(90)=年齢は記事執筆時。
田中さんは幼い頃から門司・小倉で過ごし、高校も小倉。
無法松の撮影現場、そして今も製作を思い描く、もう一つの〝北九州映画〟について聞いた。
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田中さんのプロフィル
1934(昭和9)年、大分県生まれ。
幼少期を旧満州(現中国東北部)で過ごし、12歳だった1946(昭和21)年、福岡県門司市(現北九州市門司区)へ。
小倉高校から青山学院大学に進み、大学在学中に東宝で撮影のアルバイトを始める。
卒業後、東宝に入社。岡本喜八監督や稲垣浩監督らに付き、数多くの映画製作に携わった。
28歳だった1962(昭和37)年、俳優・三船敏郎の三船プロダクション設立に参加し、その後入社。
三船プロを離れた後、田中プロモーションを立ち上げ、映画製作を続けた。
高倉健の主演映画「駅 STATION」「海峡」「南極物語」「居酒屋兆治」では、プロデューサーなどを務めた。
北九州市小倉北区在住。
「無法松の一生」とは
「無法松の一生」は小倉出身の作家、岩下俊作(1906〜1980)の小説「富島松五郎伝」が原作。
物語の舞台は、明治から大正にかけての小倉。
「無法松」と呼ばれた暴れん坊の人力車夫、富島松五郎が、大尉の夫を亡くした女性に思いを寄せ、彼女の息子の成長を見守り、助けていく。
(「無法松の一生」昭和33年版予告編)
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東宝でアルバイト、入社して助監督に
ーー田中さんが東宝に入ったきっかけは
田中壽一 青山学院大学にいた時、東宝がキャンパスで映画のロケをしていたんです。何の映画だったか忘れましたけど、そこに(女優の)青山京子がいました。私は彼女が出た映画「潮騒」(1954年)を見て、ファンでした。すると東宝にいた大学の先輩が「青山京子に会わせてやるから東宝に来い」と。それで1955(昭和30)年の暮れから東宝でアルバイトをするようになりました。
ーーアルバイトは、どんな仕事を
田中 作品係といって、(その他大勢の)大部屋の俳優やエキストラに役を割り振ったり、出番を知らせに行ったりする仕事です。私は人の顔と名前を覚えるのが得意で、重宝がられていました。それで東宝の専務が「お前がいると助かるから、卒業したらウチに来てくれ」と。それで大学を卒業して入社しました。
日本映画の黄金時代だった
田中さんが東宝入社後の1958(昭和33)年、映画館の入場者数は延べ11億人を突破してピークになり、映画は娯楽の王座に君臨していた。この年の前後、東宝は黒澤明監督の「七人の侍」(昭和29年)をはじめ、植木等(クレージーキャッツ)の無責任・日本一シリーズ、森繁久彌の社長シリーズ、加山雄三の若大将シリーズ、ゴジラなど特撮シリーズといった数多くのヒット作を放ち、日本映画の黄金時代を築く一翼を担った。
ーー入社後はどんな仕事を
田中 もう作品係はいやだったので、〝助監督をやりたい〟と言ったんです。すると助監督委員会の委員長だった岡本喜八さんから「田中君、悪いけどね、すでに助監督のポストを待っているのが3人いる。彼らを先に助監督にしないといけないから、君はその後で」と言われました。
ーー助監督にはなったのですか
田中 なりました。稲垣浩監督の映画「どぶろくの辰」(1962〈昭和37〉年、三船敏郎主演)が助監督に付いた最初でした。若大将シリーズでハワイロケに行ったりもしましたが、助監督になったのは年齢的に遅く、その頃はプロデューサーを志していました。
大変だった小倉祇園太鼓の撮影シーン
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ーー稲垣監督の「無法松の一生」について伺います。どういう経緯で、この作品と関わるようになったのでしょうか
田中 稲垣さんから声がかかったんです。田中は(小倉にいたから)小倉のことをよく知ってるだろうと。それに無法松の見守る少年が、小倉中学(現小倉高校)の生徒という設定でしたから。私も小倉高校だったので「小倉高校のことも教えてくれ」と。
ーーその時は、まだ作品係だった
田中 はい。大変だったのは、無法松(三船敏郎)が太鼓をたたく祭りの小倉祇園太鼓のシーンでした。5000人くらいの見物人のエキストラを必要としました。
ーー500人でなく、5000人ですか
田中 はい。ところが、手配した関係者は、実際は4000人しかいないのに「5000人来てます」なんて言う。それで私は5人ずつ並べて、バーっと数えるんです。稲垣さんは「お前は人を集めるのがうまい」なんて言ってましたけど。
ーー小倉祇園太鼓の祭りのシーンはどこで撮影されたのですか
田中 東宝の農場オープンです。黒澤明監督が「七人の侍」を撮ったところです。
ーー撮影で印象に残っていることは
田中 やはり無法松が小倉祇園太鼓をたたく、見せ場のシーンですね。三船さんが打つ太鼓は(実際の小倉祇園太鼓にはない)創作なんですが、三船さんの太鼓は本当にうまかった。太鼓の先生による指導テープに合わせるんですが、打ち終わって「カット!」の声がかかると、5000人のエキストラは一斉に大拍手ですよ。撮影は一発OKでした。
徹夜だった太鼓の練習
三船敏郎は、この太鼓シーンについて、インタビューで次のように語っている。三船の勘所の良さや身体的能力の高さを示すエピソードかもしれない(聞き手は佐藤忠男氏)
三船 稲垣さんの『無法松の一生』(一九五八)、ベニスに出して、〝取りました、泣きました〟なんていうのがあったけど、太鼓をその撮影の前日まで教えてくれないんですよ。太鼓の先生はいるわけですからね。ドンツクドンツクスッドンドンとかなんとか、前に、もうテープなんかもあった筈ですからね‥‥。
佐藤 教えてくれないんですか。
三船 それを教えてくれない。その前の日になって、徹夜だよ。前々から太鼓打つということ決まっているんだから。先生がちゃんと叩いて、テープに入れたやつもあるんだから、それを早くくれれば練習もできたかもしれないけど、前の晩によこすんだもの、弱っちゃったよ。だけどやっちゃったけどね(笑)。
ーー小倉に関係することでは、他にどんなことが
田中 小倉中学の生徒たちが出てくるシーンで、彼らの学生帽があるんですが、帽子のつばが長いんですよ。しかし、実際の小倉中の帽子は、つばが短い。それで、これは違うと。帽子に入る線の太さも違っていたので、正しいものにしました。
ーー映画はベネチア国際映画祭で金獅子賞をとりました
田中 東宝も喜んでましたね。私もうれしかったですよ。
八幡製鉄所が舞台の映画「宿老」を作りたい
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ーー今も映画作りを考えているそうですね
田中 はい。いくつか構想がありますが、北九州に関係するもので、どうしても作りたいものがあります。
ーーそれは?
田中 八幡製鉄所の「宿老」、田中熊吉を描く映画です。脚本も途中まででき、監督も主演俳優も決めていました。ただ、溶鉱炉での撮影が必要なのですが、製鉄所からどうしても撮影許可が出ませんでした。
宿老・田中熊吉とは
「宿老」は製鉄所の職工の中で、卓越した技能者が就く職名(定年のない終身雇用)。田中熊吉(1873〈明治6〉年〜1972〈昭和47〉年)は98歳で亡くなるまで「高炉の神様」と言われた伝説的な宿老。作家・佐木隆三は「宿老・田中熊吉伝 鉄に挑んだ男の生涯」を著した。
ーー溶鉱炉をセットで、というわけにもいかないでしょうからね
田中 いかないですよ。スケールが違いますから。八幡製鉄所では、かつて「熱風」と言う映画も撮られたんですが‥‥。「宿老」が完成していれば、ちょうど官営八幡製鐵所旧本事務所を含む施設が「明治日本の産業革命遺産」に世界文化遺産登録された時(2015年)と重なり、タイミング的にも良かったんですが。
八幡製鉄所で撮影された映画
「熱風」は戦時下の1943(昭和18)年公開の国策映画(東宝)。原作は「無法松の一生」の作者であり、製鉄所の職員でもあった岩下俊作。山本薩夫が監督し、藤田進や原節子らが出演した。
八幡製鉄所では戦後も、映画「この天の虹」(1958年・木下恵介監督、松竹)が撮影された。
ーー映画「宿老」ができていれば、北九州にとって重要な作品になったかもしれませんね
田中 私は「宿老」を、どうしても作りたい。私最後の作品として。
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(映画「無法松の一生」「熱風」「この天の虹」は、こちらの記事でも紹介しています)
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