私とは何か 「個人」から「分人」へ を読んで
最近、note内の記事で分人主義という言葉を目にするようになった。調べてみるとタイトルの本が出てきたので読んでみた。10年以上前に発売されていたが、ここ最近までおそらく分人主義という言葉は耳にしたことが無かったように思う。
僕はその本を読む前に著者の肩書などを見てから読むことにしている。著者は小説家ということで、その先入観も相まって今回読んだ内容は、フィクションとノンフィクションの中間の位置づけの印象を受けた。
著者が言うには自我(=「本当の自分」)は一つだけで、あとは、表面的に使い分けられたキャラや仮面、ペルソナ等に過ぎないという考えは間違っているらしい。
分人の構成比率(分母も分子も)は人によって違っていて、スイッチングは中心の司令塔が意識的に行っているわけではなく、相手次第でオートマチックになされていると著者は言う。
また著者は、分数である分人を全て足すと1になるかは、本文中で保留をつけた表現にしたと言っており、一人の人間の中の分人同士は、混ざり合う方がいいのか、それとも分かれている方がいいのかについては、両方があり得るという考えを示している。
これらに対しての僕の意見はこうだ。
分人かペルソナかはさておき、相手によってこちらの態度が多少なりともかわるのは間違いない。しかし、オートマチックに切り替わるかどうかは疑問が残る。
確かに感情が昂って無意識的に出てくる言動などは分人というか人格の一部だと思う。どのような場面でどのような態度を示すかはもちろん人によって違う。ただ、日常生活においてはその人の標準の態度みたいなものはあると考える。
その状態からTPOによって、何かしらの意識的な言動の変化は起こっているだろう。基本的に、その場ではふさわしくない言動を意識して過ごすことは日常多くあると思う。集団社会の中で生活をしていると、社会通念上、暗黙のルールのようなものを無意識的に強いられていることがあるかもしれないが、それに背こうとした時に、どうなるかを意識して言動を変えることはあるはずだ。人は自分が不利益を被らないためにTPOに合わせて不適切な言動を避けている。
また、僕は分人は独立はしていないと考える。足して1にはならないだろう。重なっている部分があるはずだ。公式サイトに分人の円グラフがあったのも違和感があった。
それに、例えば複数人同時に相手をする時は、その人数分の分人が出現するかもしれないが、そこでは出番のない待機中の人格のような何かはあると思う。一個人の中にあるリソースを適宜判断して意識的か無意識的かはわからないが、割いている(割かれている)と僕は考える。
加えて、一人で過ごしている時などは、その瞬間はある程度の分人は統合されているイメージがある。統合というか対人用のリソースを極限まで使用していないという感じだ。
分人の考え方自体は、この人はそう考えるんだという認識であり、人の考えのため僕はしっくりきていない。どうしても分人の機能の仕方に違和感がある。
それに分人がオートマチックに機能しているより、仮面をかぶる方がかっこいいから好きだ。
あとは、分人が完全に独立していれば嫌なこともその分人だけで処理できるのかもしれないが、分人が何人いようと全て個人にかえってくる。
漫画とかでよくある抑圧された別人格などは、意識的にはつくれないし、仮にそういう状態であったとしても、精神を含む人体には何らかの悪影響を及ぼしそうだ。
分人主義という考えを理解し受け入れたとして、自分の生き方にどう適用するのかがわからないというのが僕の率直な感想である。
こういった思想系のものは、著者の考えを読者にあますことなく伝えるのは不可能に近いものだと考えている。言語化されていないイメージや感覚みたいなものは少なからずあり、それらが実は重要な要素であるということも十分に考えられるためだ。
ちなみに(本当の)自分というのは僕にはわからない。わかる人いるの?
noteで真面目な内容と冗談気味の内容の記事を書いている自分、どちらも自分だ。
※能動的ではなく、好ましい状況ではないが、仕事で忙しいときはもう一人自分がいればいいと思うことがある。分人ではなく分身が欲しい。ネガティブな妄想だ。これを考えているのは分人ではない認識でいる。
おわり