ソシオニクスの心理機能に関する質問その⑦ vs Ne
残り2つ。順番に回答はしていないが、途中で力尽きた。
1-①人生には意味があると思いますか?
現状の答えとしては、意味はない側に寄っている。意味があると明確に答えられる人が少し羨ましい。意味があってほしいという気持ちはある。意味がない人生を意味がないと思いながら生きる。虚無でしかない。
1-②人生に意味があるという場合、その意味は何だと思いますか?
模索中なので、今は答えられない。
1-③人生の意味は、全ての人にとって同じだと思いますか?
同じではないと考えている。同じだったらそれこそ、人生の意味はないことにつながると思うので。例えば、ロボットなどは、何らかの役割をもって生み出されてはいるが、その役割というのは画一的であるともいえる。人間の役に立つかどうかという意味合いが大きいだろう。人間から見たロボットには、(一応)意味があると言える。
では、ロボット自身はどうか。そういう機能が搭載されていないというのもあるだろうが、自身を認識できていなく(自我が無く)、自身の意味などは考えない。プログラムに従って行動しているだけだ。人間には自我があるとはいえ、その役割というのは人間を創った創造主にしかわからない部分があると思う。偶然の産物かもしれないし、何か意図をもって生み出したのかもしれない。答えの有無はさておき、人間自身で人生の意味を考えるということはできる。
人生の意味について、多数派の傾向みたいなものはあるのかもしれないが、全ての人にとって同じということはあり得ない。同じだったら、どこかで誰かが同胞に共有しているはずだ。隠し持っていたとしても、そういうのはまず間違いなく漏れ出てくる。
2-①未知の人に出会った時、すぐに「おそらく、この人はこういう人だろう」といった情報を掴むことはできますか?
エスパーじゃないんだからすぐにわかるわけないだろ。とは言え、表層的な部分から見えてくるものはあると思う。ただ、「こういう人」の、自分が認識しているパターンが少ないと、「こういう人1」「こういう人2」・・・・「こういう人n」という何パターンかを一緒くたにして「こういう入」としか判断できない。
MBTIやソシオニクスなどの既存の枠組みを使うか、自分なりに定義した人格パターンを当てはめるかというのはあるが、何かしらの判断基準があれば相手の情報はつかみやすいのではないかと考えている。
2-②上記のような情報を、あなたはどうやって掴んでいますか?
一応、見た目や服装などから得られる情報はあるものの、やはり話してみないとわからないこともある。ものの見方に関して人それぞれの違いがある程度わかりやすく出てくれると判断材料として役立つ。僕自身は、自分の経験からぱっと見の印象で「こういう人」となんとなくのあたりをつけるぐらいしかできない。
2-③「この人はこういう人だ」と理解するのに、どれくらい時間がかかりますか?
どれくらいと言われても回答に困るが、発言や思考内容などの傾向がたまたまそういった傾向だったのか、普段から同様のスタンスなのか、その辺りも含めてでないと理解したとは言えないと思う。あまり、早々に人間性を決めつけたくはないので具体的にはわからないが、それなりの時間がかかると考えている。それは、自分自身にも当てはまると思う。相手からしてもこちらの人間性は多分早々にはわからない。でも、話す機会があれば意外とわかりやすいかも?
3-①アインシュタインの名言に「この世には2つ、無限なものが存在します。それは宇宙と人間の愚かさです。もっとも前者が本当に無限なのかどうか、私にはわかりません」というものがありますが、愚かさの本質とは何だと思いますか?
学習しないこと、学習したことを後世に伝えないこと、このあたりが愚かさの本質だと考える。
3-②なぜ愚かさは無限なのだと思いますか?
時代を超えて繰り返されるから。
3-③愚かな人と、そうではない人の違いは何だと思いますか?
失敗や成功など、過程も含めて学習したことを次に活かせるかどうか。
4-①真実、半分だけ真実、虚偽:この3つを区別する基準は何だと思いますか?
知らん。半分だけ真実というのも適切ではないと思う。「真実でも虚偽でもないもの」ぐらいの方が問題としていいのでは。
自分にとっての「真実」「半分だけ真実」「虚偽」なのか、世界にとっての「真実」「半分だけ真実」「虚偽」なのかも不明だ。それも踏まえてのタイピング質問だとは思うが。
何にせよ、半分だけ真実というのを区別するのは難しいだろう。真実の中に少しだけ嘘を混ぜると判断がつけづらいとよく言われている所以だ。
自分しか知り得ない事実は主観でしか区別できないので、主観が区別基準としては一番重要だと考える。
4-②純粋な真実や、純粋な虚偽は存在すると思いますか?
条件付きで存在するにしとくか。今後、どうなるかはわからない。
純粋というのが100%だという意味だと考える。
「人は150歳までに死ぬ」「人は150歳までに死なない」、今後どうなるかはわからない。「死」の定義は現代医学と同様だとしておく。
この辺の質問は、他のタイピングの質問でも出てくるが、結局、定義や主観・客観などで変化すると思うので質問として適切かというのはある。タイピングの質問としてそれらしい内容であれば、このタイプはこういった傾向の回答をするだろうというのはあると思う。答えの有無が明快でない方がおそらくタイピングの参考にはなりやすいということだろう。
4-③いくつかの具体的な事実やデータが組み合わされた結果として虚偽が生まれるメカニズムを教えてください。
1月1日、AがBをした。
1月2日、AがCをした。
1月3日、DがEをした。
1月4日、DがFをした。この辺の組み合わせが伝言ゲーム中に
入れ替わって虚偽が生まれる。
ある事実データから恣意的にデータを抜粋して作成者の思惑通りにグラフなどを表示するというのはよくあると思う。
また、人的要因で意図せずとも虚偽が生まれることがある。虚偽が生まれるメカニズムには人間が何らかの関与をしていると考える。まあ、当たり前か。最終的に虚偽判定をする観測者が人間である以上、そのデータを扱うのも人間だ。間に人間以外を挟んでもそれは変わらないだろう。
5.アイデアが優れているかどうかにおいて、必ずしも正確性は重要ではありません:この考えについて、あなたはどう思いますか?
賛成する。もし必要であれば正確性なんかは過程の後ろの方で調整すればいい。最初から可能性を狭めてどうする。というか、正確性はむしろいいアイデアの邪魔にしかならないのではないかと思う。無視していい。アイデアに限った話ではないが、何かを後から足していく方が、何かを後から削るよりも難しいと考えている。アイデアをどう料理するかというのは後の話なので、まずは素材を揃えることが大事だ。
6-①想像力という言葉の意味を、あなたなりに解説してください。
オリジナルのストーリーをつくる力。創作といえばそうだが、全くの無から有を生み出すだけでなく、今ある情報(過去・現在)から新しいもの(未来)をつくりあげ、設定する力だと考えている。
6-②全ての人が想像力を持っていると思いますか?
程度の差はあれ、だれしもが想像力を持っていると思う。普段、使い慣れているかどうか、使い方を知っているかどうかの違いだと考えている。逆に想像力がない人の想像ができない。これだと自分に想像力がないと言っているのと同じか。
6-③あなたは自分に想像力があると思いますか?また、それはどのような形で発揮されることが多いですか?
自分では何とも言えない。何かに取り組む際や意思決定をする際に、いくつかのパターンを想像(想定)するという場合が多い気がしている。過去仮定ではなく、未来仮定の方に想像力を働せていると思う。あまり、パターンを広げすぎると、自縄自縛になってしまうので、細かくは想像しない。これは外せないというものに焦点を当てて考える。
例えば、仕事において現段階では何も言われていないが、たぶんこれ後で必要になりそうだよなという時に予め準備しておくとか、匙加減が難しいところもあるが役には立つ。後は、起きた事態に対しての原因を探る時に使ったりとかもする。事実から過程を含めたその背景を、多分こういうことだよなという仮定のもと紐解いていくような感覚だ。
ブレインストミーングといったアイデア出しなどは、普段ほとんどしないが、そこまで得意ではない気がしている。
7-①誰かが(またはあなた自身が)他の人と異なっていて、その違いが目立っている時に、あなたはどう感じますか?
誰か例えば、背が高い人が満員電車にいると邪魔だなと思う。これは一例だが、外見でも内面の性格でも能力でも集団の平均といったものから大きく外れていると生きづらいのか?と考える。多数派におさまる安心感というものがあるのだろうか。
僕自身は目立つのは好きではない。たとえ、それが良い意味だとしても。他に目を向けてくれと思う。
7-②「この人は他の人とは違う」あるいは「この人は他の人と同じだ」ということを、あなたはどのような基準で区別していますか?
何かを伝えたり表に出す場合に、自分自身の言葉で語れているか、その人の人間性を感じさせる表現になっているかというのが一つある。言動なども同様だ。また、その言葉や内容が、自分にとって面白い、珍しい、独創性があるなどの基準で区別していると思う。僕の印象にはなるが、他の人とは違うという人は、たまたま独創的だったというよりは多くの場合でその人間性があらわれているように感じている。つまり面白い。
7-③「他の人とは違う」という在り方が容認されるのは、どのような状況や条件が満たされた時だと思いますか?
今であれば、ダイバーシティなどが叫ばれているが、「他人に寛容になれる」、もしくは「他人に興味がない」といった場合に他の人とは違う在り方が容認されると思う。現状は、そのどちらでもないような気はしている。ひとまず「他人に寛容」ではないよな。
行き過ぎたポリコレなんかは、結局のところ、この条件の場合はこうでなくてはならないという、おそらくノイジーマイノリティの価値基準に染まることになるので、他の人とは違うという在り方が容認されていないことと同じことになる。
一見すると、その特定の信条を持つ集団の中では確かに容認されているのだが、実態としては全体で見た場合に集団を超えて自分たちにも迷惑や圧力をかける存在としてしか見られていないのではと感じることがある。
他の人とは違うことに対して、それを容認しろと自分たち以外に向けて声高々に主張するのは、自然とは言えないと思う。容認とは強制力が働くものではないと感じる。
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