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何を言うかより誰が言うかだからこそ、自分で見つけたものが嬉しい

営業職をやっていて、何を言うかより誰が言うかだよなと思うことはつくづくある。

だからこそ新規顧客にはとにかくヒアリングと受容を徹底する。「この人は私をわかってくれる人だ」とまずは私の印象を持ってもらってから、こちら側の提案を行うようにする。最初に受け入れてもらえなかった提案が、のちのち関係ができていくうちに受け入れられたりもする。

同じことを言っても誰が言うかによって反応が変わるなんて、と馬鹿馬鹿しくもなるが、誰が言うかを重視するのは人間のサガなのかもしれない。


あるYouTuberの動画を観たら、コメント欄に「内容はともあれ、このYouTuberが出している動画だからという理由で見ている」といった趣旨のコメントがあった。ネガティヴな意図を孕んだコメントで少し胸が痛んだが、その通りだと思った。

この人が発信しているから、この人が訴えているから、という信頼のもとでしか築き得ない評価があるのだと思う。


自然と自分にもそういう節がある。好きな作家の新刊だから読む、好きなアーティストの新譜だから聴く、好きなネタツイッタラーのツイートだからいいねする。転載だったらいいねしない。

そうした発信者へのバイアスを取り除いて自分自身が心躍るものを自分自身で見つけようと足掻いて、Apple Musicや Spotifyの自動再生機能を駆使してみるのだが、おっいいな、と思ったイントロの曲の情報を見に行って元々好きなアーティストの新譜だったり聴いたことがなかった曲だったりすると、あちゃちゃまた同じところに辿り着いたかという落胆と同時に、やっぱりこのアーティストは外れがないという安堵感に包まれて結局バイアスから抜け出せずにいる。
(ついさっきもオッと思ったイントロの曲がbetcover!!の「新しい家」だった。変わり映えがない)

今年の上半期よく聴いたアーティストのひとつにcho co pa co cho co quin quinがいるが、これも親愛なる友人から話を聞いたのをきっかけによく聴くようになっただけだ。


こうした「誰が言うか」「誰が発信するか」に自然と左右されてしまうからこそ、「誰」を問わずに自分で見つけた好きなものは一層の煌めきを放つと思う。


先日は「なにか秋らしい文化祭のようなイベントはないかしら」と思い立って、「愛知県内 秋 文化的 イベント」と間抜けな検索をした。愛知県に住んでまだ2年ほどの私にはこの調べ方しか頭に浮かばなかったのだ。

ただ思いの外、良いイベントが見つかった。名古屋城で開かれるsocial castle marketというものだった。どうやら名古屋市内最大規模のマーケットイベントらしい。マルシェやら屋台やらが好きな私は即断で行くことにした。

比較的近いところに住んでいるし、1人で行くだけだったので気楽にぷらっと行けてよかった。音楽のステージがあることに全く気づいていなかったのだが、前日に調べたら大好きな澤部渡(スカート)が来ると知って心躍った。

写真よりさらに近くで聴けて幸せだった

非常に楽しかった。誰に聞いたわけでもなく、自分で見つけたイベント(有名なイベントではあったようだが)だからこその嬉しさもないまぜになっていたように思う。


何を言うかより誰が言うかの方が重視されるのは解せなくもある。だけどやはり誰が言うかは大事だし自然と意識してしまう。そもそも「誰が言うか」の「誰」の部分で信用されるのはその人のそれまで築いてきた信頼たりうる発言や行動の証なので、その人に説得力があるのも当然だ。

ただ、だからこそ「誰」に左右されていない「自分」が選択したことや見つけ出したことの煌めきはひとしおなのだ。誰かの発言や誰かの発信を参考にさせてもらいつつも、自分で見つける、自分で考える、自分で選ぶ、という手間のかかる愛おしい工程を忘れずにいたい。

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