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「やらなくなったこと」だけど、やっぱり「やり続けたほうがいいこと」だと痛感したので、再インストール。

 たいしてふり返ったわけじゃないけど、去年ふと気づいたの…いや気づいてしまったのは……もっといえば一昨年以前から察してはいたが目を背けていたのは、自身の「思考の狭まり」だった。

 思考が狭まるとは、新しいものの摂取が減ること。もちろん、学校に通ったり、お店を始め、ついでにポケカに出くわし、新たな環境に適応するべく日々学んではいるのだけど、かつてのような脳みその広がりが乏しい。その事実に、急所をつかれたみたく、うぐっ、となる。

 じゃあ、その原因ってなんだろな、はて、と巡らしてみると案外すぐ出てきた。

 「取材」が減ったこと。そう、記事執筆のため、人に話を聞きにいくことが圧倒的に減った。これに尽きるし、これがあかんかった。

 特に20代は、日本各地のいろんな働き方や暮らしを実践/実験している人のもとへ足を運び、その地域を五感で堪能しながら「なるほど」と唸ることばかりだったわけで。明らかに「無知だった」自分は、すべてが新鮮かつ刺激で、"広がり"ばかりを感じていた時期でもある。

 けど、今は、どうだろう。「聞く/聴く」という行為だけでいえば、主に場づくりと企画を仕事にしている性質上、意識的/無意識的にやっているはずだ。

 ただ、知識としてストックされた既知の(ある程度が想像/予想できる)範囲でしか情報が循環していない。で、一番こわいのは、日々アップデートされている情報におっつけてないのに過去の止まった情報を糧に何かをわかった気になっているんじゃないかってこと。

 そうだ、感情としてはいい。ちゃんと「こわい」と思えてるのは。おまえは、恐怖がないと動かない/なまける人間なんだから、つねにビビって暮らすくらいが丁度いい。

 狭まって狭まって、つまんない自分に項垂れるよりかは、少しずつでも広げて広げて、世界の、目の前の人のおもしろがり方を研磨していきたい。そういう意味でも、今年はだいぶ長らくサボっていた「取材」を「メディア」という意識のもと、習慣として再インストールしたい。

 まさに今は"ライター"っていう立ち位置でもないから、ここで書いたことの解像度を上げつつ、しっかり整理してけるといいんだろうな。仕事というよりはライフワークとして。

 「聞いた」あとに揺さぶられたものが「書く」にもつながったら万々歳っつことで。よろしく、おれ。

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