【ネタバレ注意!】乙一の小説「シライサン」感想
↑表紙の赤い線は鈴を結んでた糸なんですね。
乙一氏の小説は全部追ってるのに何故か2年前に刊行されてることに気づかなかった「シライサン」を読み終わったので感想とかを書いてく。
中学生の頃の本を純粋に楽しんでた気持ちを思い出させられた
小説内で判明・推測できること
●噂をネットに流してたのは間宮の妻である冬美
冬美は多分自分の出自を聞かされていた。
信じてはいなかったと思うが、シライサンの話で次々に人が死に始めたため呪いが現実のものだと知り、山の神に娘を返してもらえるようお願いした。
過去に蔵の女の赤子(冬美の祖母)が帰って来たときは村が消滅するほどの供物が必要だったので、更なる供物が必要と考えネットに都市伝説として流出させ更なる供物を捧げようとした。
冬美が顔面蒼白になったり最後の娘が家に帰って来てるシーンで憔悴してるのは、夫や見知らぬ人々の命を奪ってしまった罪悪感から来てるのかなと思う。
●シライサン=死来山
シライサンはシライ+さん(敬称)じゃなくて、死来山という山のこと。
口伝てに広まっていく話自体に呪いが込められている。
●目の異常に大きな女は山の神の使い
目の異常に大きい女はシライサンではなくてシライサン(山の神)の使い。
蔵の中から供物を持って行ってたものと同一の存在
●シライサンが3日に1回しか来ないのは死後の世界と現世を往復してるから
シライサン3日に1回しか来ない説があるけど、死後の世界と現世を往復するのに時間がかかってるから。
自分からシライサンの近くに行ったら普通に殺される。
●シライサンはある一定数の生者の命と引き換えに死者を返してくれる
船の上に今までシライサン怪談の呪いで殺された人たちの魂がストックされている描写があった。
多分この船がいっぱいになると向こう岸(死後の世界)に出発して、代わりに供物を捧げた者が望んだ死者が向こう岸から船に乗って現世にやってくる。
冬美が都市伝説の流布に気づく前から死者が出ていたので、特定の死者の復活を誰も望んでいなくてもシライサン怪談は自動で供物を集めている。
溝呂木も真央ちゃん復活の供物に入っているはず。
●目が破裂するのは山の神が視線を嫌うから
視線を外さなければ女が襲ってこないことから山の神とそれに類する者は視線を嫌う。
山神という高尚な存在を見ることが許されないとかいう話じゃなくて単に視線が嫌いな模様。
無礼な態度に怒っているなら逆にみてたら近づいて来そうだし。
●石森ミブ=蔵の女
ミブとその孫娘の容姿が似ていることからわかる。
村人を全員供物にして、一度死産になった子供を再妊娠したと思われる。
●シライサンが来たときに現れる死者は本人か?
恐らく偽物。
香奈が瑞紀を恨んでいる理由が弱すぎる。
ネガティブ思考の瑞紀の被害妄想の方がしっくりくる。
あと女が詠子を襲うときに声真似してたことから、呪いの対象者の心を読むか投影した擬似音声を出すことが出来るってのも偽物な理由。
よくわかんなかったこと
●何故渡辺秀明は子供の頃に死んでないのか?
子供だから話を理解できなかった?
理解できなかった話を日記に忠実に再現できるとは思えないけど。
●加藤香奈が瑞紀に付けた傷は何故消えなかったのか?
瑞紀の罪悪感で傷を自分で呪われたものにしていたのかな?
本当に香奈が腕を振り払われただけで恨んで傷を残してたのなら香奈心狭すぎる。
●目隠村と引き換えに黄泉から帰って来たのは誰?
蔵の女が死んで火葬されるシーンが詳しく描写されているから、もしかして蔵の女は本当に一度死んでいるんじゃ?と思った。
シライサンにお願いしていた返してもらう死者は自分自身だったっていう。
ただこれだと宿に住み込む前に既に身籠っていたというとこと矛盾するから妄想でしかない。
普通に帰ってきたのは死産になった子供だろう。
あと子供は死産じゃなくて調伏のときの生贄にされたっていう妄想もしてみた。
感想
乙一作品は中学生の頃からずっと追ってるけど相変わらず面白い。
いつも割と淡々とした文章だけど、この作品は特にそうだなあ、と思ってたら映画作品のノベライズだからだった。
小説というよりも詳細に書かれた脚本という感じがする。
話も叙述トリックとかはなくて映像作品でも再現可能な話だった。
題材も真相の明かされ方もありふれたものではあるけど、臨場感のある描写や、現実の作品を登場させたりでリアリティを出してるから没入して読むことが出来た。
乙一の作品は無駄に難しい表現が少ないのでクライマックスでもスピード感を失わずに読めるのも魅力だと思う。
ただその簡潔な表現に物足りなさも感じてしまった。
大人になる過程で小難しい本に多く触れたせいで変に斜に構えて本を読むようになっちゃってるのかなと思った。
乙一はラノベ育ちでラノベを軽視されることをよく思わないと言っていて昔の自分もそれに共感してたのに、いつの間にか自分が内容よりも文章の巧妙さや高尚さを判断基準に入れ始めていることに気付いた。
素直な気持ちで斜に構えず、面白いものは形式を問わず面白いと言える人間であり続けようと思う。