【化学兵器と核兵器】世界史は化学でできている

絶対に面白い化学入門 〜世界史は化学でできている〜
著者:左巻健男
出版社 : ダイヤモンド社 第1版 (2021/2/16)


はじめに

 第18章の、化学兵器と核兵器の歴史と化学の関わりをピックアップしました。本書は他にも、ビールやワイン、麻薬やタバコ、石油など、様々なトピックで、歴史と化学も紐付けを行なっていて、とても興味深い内容になっています。化学を学ぶにあたって、その光と影をわかりやすく知ることができる本だと思います。

 ピックアップした第18章「化学兵器と核兵器」は、特に化学者の光と影を示す重要な項目です。特に第一次世界大戦〜第二次世界大戦にかけて、戦争が、人類の狂気をむき出しにしてひたすら殺し合う、凄惨なものになっていきました。私たちは化学の側面から、そのことを知る必要があります。
 また、下に紹介する「科学者と戦争(岩波新書)」にもある通り、特に科学者は上記歴史への反省を踏まえて、戦争への応用を毅然として反対する立場を取る必要があります。

 本書を通して、現在における化学の役割や立場について、もう一度考えるきっかけになればと思い、手に取りました。


化学兵器(ドイツと日本)

・ドイツと化学兵器

第一次世界対戦の新戦術として台頭した化学兵器は、1915年のドイツ軍によるイープル戦から幕を開ける。

塩素ガスの使用

1890年にドイツは食塩水を電気分解し、良質な水酸化ナトリウムを製造することに成功。水酸化ナトリウムはソーダ工業の中心的な物質だ。ここで、その時の副製品が「塩素」だ。この塩素の活用法がなく、生産過剰だったため、化学兵器への利用が進行した。

塩素は黄白色で重い気体のため、周りへの被害は限定的である。しかし、塩素を吸引すると、呼吸器に損傷を与え、目や呼吸器の粘膜を刺激して咳や嘔吐を催す。1915年のドイツ軍によるイープル戦での塩素ガスの使用では、5000人のフランス兵が死亡、14000人が中毒となった。

技術指揮官「フリッツ・ハーバー」の存在

1915年のドイツ軍によるイープル戦での塩素ガスの使用には、化学者の「フリッツ・ハーバー」が指揮官として指導した。

彼が他の科学者を毒ガス兵器に巻き込んだ時の理論が以下である。
彼は盲目的な愛国心の持ち主だったそう。

 毒ガス兵器で戦争を早く終わらせられれば、無数の人命を救うことができる。
 科学者は平和時には世界に属するが、戦争時には祖国に所属する。ドイツこそは平和と秩序を世界にもたらし、文化を保持し、科学を発展させる国だと私は信じる。

ハーバーは1918年に、アンモニア合成法(ハーバー・ボッシュ法)でノーベル化学賞を受けている。まさに、化学者の光と影である。アンモニアから肥料をつくることで世界の農業に決定的に貢献したとしても、何千何万もの人間を毒ガスにさらしたという事実は消えない

進化する化学兵器

塩素ガスは、防毒マスクの開発もあり、次第に対策がなされていった。そこで、以下の毒ガスが次々と開発されていった。

ホスゲン
 塩素の10倍の毒性を有する窒息性の無色気体。高濃度のホスゲンを吸入すると早期に眼、鼻、気道などの粘膜で加水分解によって生じた塩酸によって刺激症状が生じる。フランスもホスゲンを準備していたが、あまりにも猛毒なので躊躇しているうちにドイツが使い始めたといわれる。

イペリット
 無色で、接触するだけで皮膚がやけどし、ひどい肺気腫、肝臓障害を起こす究極の毒ガス(マスタード・ガス)。人体を構成する蛋白質やDNAの窒素と反応し(アルキル化反応)、その構造を変性させたり、DNAのアルキル化により遺伝子を傷つけたりすることで毒性を発揮する。発癌性をもつ。

ルイサイト
 これはドイツに対抗したアメリカ軍が開発した毒ガスである。遅効性の「イペリット」と比較して、ルイサイトは即効性である。繊維やゴムを透過する性質があるため普通の防護服では防ぐことができない。

G(ジャーマン)ガス
 それ以降もドイツは化学兵器の開発を進め、第二次世界大戦でナチス・ドイツが敗北するまで、約2000種の化学兵器用の有機化合物が合成されたという。タブンサリンソマンといったG(ジャーマン)ガスが合成され、1944年には30000トンのタブンが貯蔵されていた。


・日本と化学兵器

 1929年、旧日本陸軍により瀬戸内海の大久野島に化学兵器製造工場が設置され、秘密の島として終戦まで日本地図から抹消された。1935年に拡張され、イペリット(マスタード・ガス)、ルイサイト、シアン化水素(青酸ガス)などが極秘で製造された。

日中戦争での毒ガスの使用

 日本は、1939年以降に中国国民党および中国共産党の軍に対してイペリットを使った。もっとも大規模な使用は武漢占領の4カ月にわたる作戦(1938年6月〜10月)で、約375回ガス攻撃をしたとも言われている。

第二次世界大戦で化学兵器が実戦に投入されたのは、日本軍が日中戦争において使用した事実がほぼ間違いない。

 1942年に、アメリカのルーズベルト大統領は以下の言葉を日本に放ち、後に、日本軍の中国への毒ガス使用が収まったとの一説がある。

もし日本がこの非人道的戦争手段を、中国あるいは他の連合国に用い続けるなら、このような行為はアメリカに対してなされたものとわが政府はみなし、同様の方法による、最大限の報復がなされるだろう


核兵器

原爆の原理

 原子爆弾は、核分裂連鎖反応から多大なエネルギーを得ることで作られる。特に、ウラン235の原子核に中性子をぶつけると、2つの新しい原子核に分裂する。(ウラン235がもっとも核分裂を起こしやすく、原爆や核燃料に利用されている。

 ウラン235の核分裂は、原子力発電の仕組みでわかりやすく記載されている。ウラン235の1個に核分裂を起こさせると、中性子が2〜3個飛び出し、同時に多くのエネルギーが出る。そのとき飛び出した中性子が、さらに近くにあるウラン235にぶつかり核分裂を起こす、、、(核分裂連鎖反応)。その結果、多量のエネルギーが出る。


マンハッタン計画

 マンハッタン計画は、第二次世界大戦中に行われたアメリカの原爆製造計画の暗号名であり、その課題は、まず天然ウランに0.7%しか存在しないウラン235を分離し、濃縮すること、同じく核分裂性元素のプルトニウムを製造する原子炉を建設することであった。
 1945年7月に、原爆第一号が完成された。

 1945年8月6日に広島市にウラン原爆「リトルボーイ」、8月9日に長崎市にプルトニウム原爆「ファットマン」を投下した。
 ここで、科学者は、ナチス・ドイツ降伏後、原爆の使用に強く反対している。日本の降伏も予測されていたことから、戦争締結に原爆投下は不要であったと思われる。原爆投下を決定したアメリカの指導者たちが見ていたのは、「日本」ではなく、対ソビエト連邦(ソ連)を中心とする戦後の「世界戦略」だった(ソ連への政治的優位性が目的)。


第二次世界大戦のその後

 第二次世界大戦後、科学者たちは、核兵器の破棄と科学の平和利用を直接世界の人々に訴える「ストックホルム・アピール」や、「ラッセル・アインシュタイン宣言」などの行動に踏み出した。また、1957年には、核廃絶をめざす国際平和会議「パグウォッシュ会議」が開催された。

 これは、科学者の社会的責任への反省の一面である。

ストックホルム・アピール
 1950年3月、平和擁護世界大会委員会(後の世界平和評議会)がストックホルム大会で採択した、核兵器廃絶に向けてのアピール。核兵器廃絶運動の最初の具体的提起。

ラッセル・アインシュタイン宣言
 米ソの水爆実験競争という世界情勢に対して提示された核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた宣言文。

パグウォッシュ会議
 全ての核兵器およびすべての戦争の廃絶を訴える科学者による国際会議。



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