SS:朝
玄関を開けると、今日はくもりのようだ。一人暮らしの家のしんと静まり返った世界にざわざわとした音がすべりこんでくる。
靴の踵を直して、歩き出す。
朝の空気を吸い込んで吐き出すだけで、昨日の自分からドロッとした何かが循環して、体の中が今日になっていくような感覚だ。
いつもと同じように家を出てすぐの角を曲がり、舗装された道をまっすぐに進む。まだ少し早い時間だからか人はほとんどおらず、時々車が横を通るだけ。昨日は気づかなかったけど、“山本”という表札の家に名前は知らない山吹色の花が咲いていて、私はこの道を本当にぼーっと歩いてるんだなあ、と思った。
朝起きて、顔を洗って、上着を羽織って、外に出て30分散歩をする。このルーティンが始まったのは2ヶ月ほど前、会社を辞めてちょうど1ヶ月が経過したころだ。
それまでの私は会社に出る30分前まで布団の中で何をするでもなく過ごし、朝ごはんを食べることもコーヒーを飲むことすらせずに、必要最低限の身支度をして出かける日々を送っていた。体の中に残っている昨日の自分を引き連れたままでも電車になんとか乗りさえすれば、あとは人混みが会社に連れていってくれた。会社のビルに着いた途端、死んだ心に急いで心配蘇生をほどこし、エレベーターを待つ間にやっと息ができるくらいまで持ち直して、いつもと同じデスクにつく。
それが当たり前だと思っていたので、自分の意思で早起きをして外を歩くことが出来るなんてことは、完全に予想外だった。
「すみません」
横からおじいさんが現れて、思わず小さく「わっ」と声が出る。またぼーっとしていた。
「今の時間空いてるウェリシアみたいなお店はどこにあるかご存知でしょうか?」
「…今の時間空いてるウェリシア…」
ウェリシアはドラッグストアだ。この時間空いてるとなると24時間営業の店舗…となると…
「この道のつきあたりを右にいくと、ウェリシアではないですけど同じようなドラッグストアがありますよ」
「あー、そうですか。ありがとうございます。」
おじいさんはもう寒くなってきたこの時期に半袖のシャツで、くたびれたキャップを被っており、肩から黒い無地の鞄を下げていた。少しふらついた足取りで私が指差した方向に歩き出す。
2ヶ月歩いていて初めて人に話しかけられた。というか親友達以外の他人と話すのも本当に久しぶりの感覚だ。
3ヶ月と少し前、仕事をしている時に「やめよう」と明確に4文字が頭に浮かんだ。それまでと何も変わらない日だったのに、なぜかその時は訪れた。
そうなってからは速くて、その日のうちに上司に辞表を出し、誰にも引き止められることなく私は会社の外に送り出された。それは毎日人混みに流されて通勤しているのと同じかのように、あれよあれよと流れていった。最終日もいつもと同じように仕事をして、帰り際に花束を受け取った以外は何も普段と変わらずに会社を後にした。次の日もまた出社する人のように。
当たり前だけど、次の日は出社しなかったし、久しぶりに昼ごはんを自分で作って食べて、何もせずにごろりとして過ごした。
折り返し地点を過ぎて、一度大きく伸びをする。
2ヶ月歩いているのに毎日すれ違う人はいないように感じる。犬の散歩をしている人や、小学生は毎日見かけるが、多分みんな別の人間。都会はそういう場所だ。
せまい道から一気にひらけた場所に出ると、今日はくもっているにも関わらず、なんだか目の前が明るくて、遠くにいる人が神々しく見える。
「あ。」
遠くからこちらに向かってきていたのは、さきほどのおじいさんだった。手には何も持っておらず、さきほど声をかけられたときのままの見た目で通り過ぎていった。ドラッグストアには辿り着けたのだろうか。おじいさんはこちらに気づいていないようだ。
しばらくおじいさんの後ろ姿を見つめていたが、私は自分の歩いていた道を歩き出した。もうすぐ家に着いて今日の散歩は終わり。
明日からは、また新しい会社に出社することになるけれど、毎朝の散歩は欠かさないようにしようと思っている。
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