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ものを時給だけで判断してはいけない

私は自称ミニマリスト。物は少ないほどいいと思っている。
買うものといえば本ぐらい。
買い物好きの気持ちはわからない。

ただ、買ったものが値段以上の働きをしてくれたら幸せ。わたしのミニマリズムのバイブル『ぼくたち、にもう物は必要ない。』に書いていた方法。ものを時給制で考える。

1000円のものを買ったら、1時間分を雇ったと思えばいい。労働者の時給はその利益の3分の1と考えると3時間分、時短してくれれば買う価値ありということになる。この考え方が自分にそのものが必要かどうかの判断基準を与えてくれる。つい最近までそう思っていた。

最近買ったiPad用のキーボード。3000円ぐらいだったので、先の計算で行けば9時間分の時短、あるいは9000円の働きをしてくれることをのぞむ。これで必要かどうか判断できる。


ほんとにそういえるか?
時給だけに囚われると自分をさらに高めてくれるものを見過ごす可能性がある。数値化の大切さを説いた計画の立て方。それとついになるような、数字は数値化できることしかまな板の上に乗せられない。そんな話をしたい。


キーボードを例にとる。9000円分の働きをするかはわからないが、少なからずPCとiPadの2台もちの重量が半分以下になることは間違えない。大学に行くとき、あるいは職場に行くときの荷物が軽い方が生産性が上がるらしい(たしか『スゴイ心理学』に書いてあった)。本当かはどうかはわからないが、軽い方がいいには違いない。生産性が上がるならさらにボーナスを上げなければ、ものが可哀想だ。

ただ、これ以上に見えない利益が、付加価値が付く可能性がある。
機動性、もっと簡単な言葉で言えば便利さが上がると使用頻度も上がる。それによってやりたかったけど嫌煙されがちだった行動に進んで着手できるという効果がある。普段文章を書くとなるとPCを取り出し、開いて、wordを押すという作業が必要。iPadだって同じことだろうと思うかもしれなが、使ってみるとPCより始める敷居が下がったように思える。いざ書き始めると楽しく続けられる。
はじめることこそ壁である。

これと同じ経験は受験の時にもした。律儀に教材を片付けるより出しっぱにしている方が勉強時間が伸びる。一つの動作なのに楽な方を選ぶ。人間はなんと不合理で勘定的なのかと思う。

私は物が価値以上の働きをしてくれることが幸せだと言いた。
自分の想像を超えた価値をもってくれた時、さらなる幸せを感じる。そう付け加えたい。読者のみなさんがいいものとの出会えることを祈って終わりにする。


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まめきち
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