小説のこと(1)

若い女の死体が浮かんでいた。昔、船をつないだ古い杭が五、六本、岸に沿って並んでいる死体はその杭に戯れるように急に頬をすり寄せたり、少し遠ざかったりしながら、波に揺れていた。地平線を覆っていた雲が割れて、ひとすじの朝の光が川を照らしたとき、死体は光を羞じるように、くるりと身体を返して岸の方に顔を向けた。まだ、ほんのうら若い娘だった。

針の光/藤沢周平

音楽業界には「良いイントロができれば、編曲は完成したも同然」という言葉があるそうだが、これは文学においても同様である。

書き出しが秀逸な作家といえば、なんといっても藤沢周平だ。たった三行で面白そうなのが分かる。あともう一人挙げると、谷崎潤一郎もまた巧みである。そして海外の文豪たちもみな、書き出しの技巧に秀でている。

しかし逆に言えば、書き出しが下手な文豪というのも、存在するのだろうか?

夏はまさにあらわれようとしていた、空に、遠くの森に、海に、セヴンティーンのおれの肉体の内部に、夏は乾いた舗道の地面にむかってゆるめられる消火栓からの水のように盛んに湧こうとしていた・・・・

政治少年死す/大江健三郎

大江健三郎はうまいのだろうか?

うまいのだとして、それは一行たりとも意味の無い文章がなくすべてが機能している、という従来いわれるところの「巧さ」とは別種の、いってしまえばポエムとしての良さではないだろうか。つまり、戦後は「詩を書く少年」の時代だったのか。

小説というものにも、やはり方法論があるとされている。実際に、「小説の書き方」という魔法の杖があれば、それは素晴らしいことだ。しかしながら、現実にはそんな都合の良いものは存在しないとも、確信している。真に、あるマニュアルに従って書かれた見事に構築された小説があると言われても、いっぽうで、小説の唯一の形式は「形式がないこと」ではないだろうか。従って、既存の形式に縛られた文学作品は、小説としては一歩、劣るものとなるのではないか。

もちろん、優劣を度外視したところで、琴線に触れる文章に出会うことはある。時には物語の中でホロリとさせる場面がある。立ち読みでうろ覚えなんだけど(たしか畠山健二の本。この人もすっかり巨匠である)「はぐれ長屋のまんぞう」という話をすると、

愚かなまんぞうという登場人物がいる。彼は捨て子であり、ある日居酒屋の女将である母親と偶然出会う場面がある。初対面の二人は、お互いに気付きながらも黙っていた。まんぞうは、かつては旗本の子供だったが、誘拐されて長屋に捨てられた過去を持っている。「何がお勧めかね?」とまんぞうが訊ねると、「煮込みです」と女将が答える。時を同じくして、乞食のような女と子供が店に入ってきた。まんぞうの家内である。他の客たちは、「嫌だ、汚い、出ていけ」と文句を言うが、女将は一喝する。「あなたたちより、彼女こそが私たちの客だ。出ていけ」と。そして、食事を済ませた後、まんぞう親子は何も言わずに「ごちそうさま」と言って店を出ていく。すると女将は、「あの男は私の息子だろ」と言い残す。

これなんかも全部パターンだが、よくできているなと感心した。

<続>

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