知識は重要ではない|自分を知ること
知っていること書こうと思っても、よくよく考えてみたらあんまりない。
そもそも「知っている」と、思い込んでいることすら、実際のところ本当に知っているかどうか、怪しい。その最たるものが「自分」ではないか。
ついこの間、ある脳科学者の本を読んでいて、問題の記述に突き当たり、しばらく悩んだ。そこには「短所は実は長所でもある」と書いてあったのだ。
...で、ひとしきり思考してみたが、ついぞ短所も長所も分からずじまいだ。
結局この歳になっても短所すらよくわかってないことを知って情けなくなっただけだった。
これから、上記の脳科学本では、恐らくは意図的に無記として、伏されている部分を考察していきたい。それは、ありていに言えば「自分を知る」経験を省察していくことだ。
1.この世で最も不可解な謎
「自分を知る」ことはいっけん簡単そうにみえて、まったく一筋縄ではいかないのである。アキレスの亀のように追っても追っても捕まえられない、この世でもっとも不可解な謎である。
なぜそうなのか?、自分を知るとは、
・ 経験から知る(主観)
・ 他人を通じて知る(客観)
…の両義的なものだからだ。当然それぞれのプロセスで得た結果なり事実は一致していたり矛盾していたりするので、混乱をきたす。
むろんどちらか一方の事実に優位性があるわけではない。むしろ双方の結果を得て、はじめてありのままの真実に近づく筈なのだ。
どちらかが欠けてもまっすぐ進めない両輪のようなもの。
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我々は生きるうえで様々な弊害に直面する。
ある程度歳をとった時点でどんどん人生の可能性が狭まっているように感じ、現状が打開できなくなる不安でどん詰まりな状況…と、人間そんなものではないだろうか?
それが起こらない人は、すでにしっかりとアイデンティティを獲得できている才覚にも精神力にもそして運にも恵まれた人だ。
あるいは現在直面している厳しい状況を客観視できていないホームラン級の馬鹿者か(幸せ者?か)
大多数の無名の人生では誰しもがアイデンディティを見失うことでつきあたる限界にであう。
何故こんなに苦しいのか!と七転八倒…もちろん俺にもそういう時期があった。
結局は不真面目な態度が、このような無様な苦しみをまねくのである。
こう言い換えても良い。
事実(それがどんなに耳が痛い内容であれ)を素直に受け入れ認め、態度や姿勢を変える謙虚さがない限り、アイデンディティを獲得することは難しい。
2.根をもつこと
どうして人は世間の目を気にするのか?
他人の目を気にして「良い子に」なろうとするのか?
それは"楽だから"だろう。
パパやママ、上司や社長の言うことを聞いて良い子でありさえすれば「俺は何者なのか?」だなんて難問に直面せずともよいと、思い込んでいる。
じっさいに強者には"良い子"でペコペコして弱者には威張ってるだけの、小狡い「セコセコ大人」も少なくはない。
もちろん「社会」はとっても大切だけど、生来もっている価値観の尊さとは比べ物にならない。価値観のほうがはるかに領域が大きく、エネルギーが強く幸せに直結している。
思わず追っかけになってしまうくらいに"尊敬して憧れてる人"…ってのはいるだろうか?別に有名人じゃなくてもよくて、職場とか日常にいる人でも構わない。ちょっと考えてみて欲しい。
蛇蝎のごとく嫌っている・軽蔑している人ってのも整理してみるのもいい。認めようと認めまいと尊敬している人/忌み嫌い軽蔑している人ってのは、深層意識にある価値観の反射なのだ。
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ただ、社会人になるとアイデンディティとか価値観とか言ってられなくなるのよね。どんな零細企業でも(てか零細企業ほど?)、フレッシュマンを対象に厳しい研修が実施される。
せっかく入社できたのに厳しさに耐えかねて研修中に辞める人も出るだろう。少なくとも俺が新卒で入社した会社はそうだった。
新人研修では人柄や要領よさ…とか社会人としての基本的な要素をチェックされているのは勿論のことだが、何より見られているのは「やめない」かどうかである。だから研修を担当する社長なり部長はいろんな理不尽な要求をしてきて、ことあるごとにつらく当たってくるだろう。
要領の悪い人ならご愁傷様。数ヶ月間さんざん虐められるだろう。あるいは本当に駄目と判断されればクビになるか辞めるまで研修が続く。
新人研修を辛抱強く耐えて、無事突破できたとしてもまだまだ安泰ではない。
職場では上司による陰険なパワハラやモラハラ、仲間はずれだってある。ライバルたちの足の引っ張り合いもあるし、何かの拍子にいじめの対象になることもある。客観視すれば、たいていが、自らの性格が災いしているのである。そうやって荒っぽく社会や他人を通じて現実を直視する…ってのも大切だ。
とくに苦労や侮辱や暴力を乗り越えた経験が大きな糧になる。
もし今の仕事が向いているのか/向いていないかよくわからないのなら、これまでやってきた仕事に対する取り組み方とか態度を振り返ってみるとよい。
実は向いているのか/向いていないかは取り組んでいる物事に対するあなたの態度で、ある程度判断出来てしまう。物事に対する態度は大きく区別して3つしかないのである。
まずひとつ目が、努力根性タイプ。
がむしゃらな努力をして成果を上げようとする態度ね。このタイプは失敗に脆くて一度躓くと再起するのに時間がかかってしまう。
ふたつ目が環境依存タイプ。
環境さえ合えば成果が上がると信じている。言うまでもなく「適正がない」のだけど、しかもこのタイプは「俺様には力があるがまわりが理解しないのが悪い」…等と思い込んでいるだけで実際は何の努力もしないのだから性質が悪い。
上記のタイプに該当するなら伸びない。
最後が戦略志向タイプ。
もしうまくいかなくなっても力量不足を認識し反省しつつさっさと次の手を打ち、打ち込んでいける。失敗を楽しみながら伸びる態度である。
これを「適正がある」と言う。
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ちなみに華僑は、"好きなこと"ではなく"得意なこと"を見つけて打ち込みなさいって子供に教える。
彼らの言葉に「あなたの嫌っている人が、あなたの得意なことを知っている」というものがある。最初これを目にした時はぜんぜん意味がわからなかった。
でも折につけて考えているうちに、この言葉と過去の記憶とがゆっくりと融けあっていった。俺はどのような人間が嫌いだったのか?、最初は曖昧だった問いの答えが少しずつあきらかになってくる。そしてある日突然この華僑の言葉が腑に落ちるようになった。
本当にビックリした!「あなたの嫌っている人があなたの得意なことを知っている」はまったくの真実だった。
あんまり嫌っているからといって避けてばかりいたら大損するし、幼稚すぎるぜ!その人があなたにつきまとうのは、"あなたの得意"を知っているからなんだよ。
華僑って何?⇒ 一言で「華僑」といっても分かっているようでよく分かってない、って人も少なくないだろうね。ザックリ説明すると華僑は中国本土を離脱して異国に根を下ろし、成功する人たちのことである。ぜんぜんエリートじゃありません
3.過去は振り向かない?
時たま、クヨクヨしたくないけどどうにもやめられないことがある。人間の脳の機能には「何故?」と自らに問いかける「反省」という優れた機能があるが、これが過剰になるのは大問題だ。
まるで拭っても拭っても落ちない汚れのようにネガティブな感情が解消されずに脳の奥に残り続けて、苛ます。
この思考パターンがきわめて有害なのは心理学でも脳科学でも証明されている(心理学用語でいうところの"反芻")。感情的になっている時点で正確な判断や洞察力は望むべくもない。
それにしてもなんでクヨクヨするのだろう?
すくなくとも俺の場合は、過去に「決断」したことについてあれこれ後悔していることが多い気がする。今までいろんな決断をしてきて都度、後悔をしてきた。
といってもそもそも「後悔のない」決断なぞ決断と称するに値しないだろうが。後悔することが分かっていたのに迷う心を振り払って、決断を断行したのである。勇気だったのか、蛮勇だったのか?実際はそこが問題なのだが。
もうひとつあるのが恥をかかされたり失敗したときにどう振舞ったか、振り返ることがある。もっとああすればよかったこうすればよかったと、まったく建設的ではないことを承知で負のスパイラルに陥る。
ともかくハッキリいって、ただただ感情的になってるだけだからやめたほうが良い。"犬も食わん"とはこのことだ。
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ならば「過去を振り返るな」と言いたいのかといえば、そうじゃない。取り扱いを誤ると躓きのきっかけにさえなる点だけは注意したいが。
はじめに認めないといけないのは心の中にある過去の記憶はたいてい正確じゃないってこと。
たとえば上司から凄惨な虐めを受けて、虐められた本人には強い恨みがあったとしても、はたからみると実際はそこまで上司は酷くもなかった…てなことは往々にしてある。ネガティブな記憶ほど歪んでいることが少なくないのである。
ならばポジティブな解釈が難しいツライ記憶はどう処理するか?
結論を述べると「解体」アプローチが有効だ。
当時どんな気持ちになったか?相手はどんな気持ちになったか?
こだわっている意味は?
…と淡々と解体作業をしていくのだ。
するとじつは大きな成長のきっかけだったり、価値観の再確認が出来たりと成果になるケースがある。
ためしに今まで体験してきた「事件」を全部棚卸ししてみると良い。ひとつひとつの事件を丁寧に解きほぐしていくと、バラバラなピース群から、壮大なテーマや教訓が起ちあがってくる…かもよ。
【過去を言葉にする質問】
① 今までの人生で起きた事件と関わった人物は?
⇒いくつ挙げてもよい
② この事件で自分や他人が感じたこと。
⇒この事件が重要と思う意味とは?
③ この事件で自分はどう成長したか?これからの自分について、何を物語っているか
④ 自分の物語には、どんなテーマや教訓を見て取れるか?
⑤ その物語では、自分はどんな人間になっていくことを示すか?
⑥ その物語は、どんな価値観や情熱、願望、まわりへの影響を示すか?
4.本当の敵
都立駒込病院の脳外科医、篠浦伸禎氏の著書によれば、恐怖に直面したときの動物の態度は基本的に2種類なのだそうだ。一つは攻撃で、もう一つは逃避。とくに脳の機能に障害があると、どちらかの傾向が顕著となるそうである。
恐怖心に囚われた人は他者を攻撃するか避ける。
もしあなたを攻撃する人がいたなら、あるいは避ける態度をとる人だったなら、相手は心の底では恐怖していたのである。
逆もしかり。攻撃したり避けることはあなたの恐怖心のあらわれ。恥ずべきことである。
また、ずっと特定の誰かを恨み続けている人がいる。心の中でグジグジと募らせて、鬱々としている。最近はSNSなどネット空間を活用して、恨んでいた相手を周回遅れで「糾弾」して復讐を果たそうとする人もいたりする。
恨みを持つ態度は、上記の「恐怖」と同根の「臆病」そのものである。まさにいじめられっ子や弱者の精神の様式とでも言おうか。
過去にどんな酷いことをされたとしても、とりかえせやしない。
心底憎いのは酷いことをした相手ではないのだ。当時の「酷いことをされ、恐怖した、なさけない私」だ。
恨みは乗りこえる以外に手立てが無いのだ。乗り越えたとき、また一歩大人になっている。
「知識は重要ではない」は計3部書いたので、是非続きも読んでください。