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「速読」の功罪

YouTubeで多読を誇っている人がいるのですが、その人の言によると、月に何百冊って読んでるらしいのです。
動画でも、背景にデカデカと書籍の詰まった本棚を見せつけて「ワイ、本読んでマッセ!」アピールしているのですが、どうも胡散臭いのですよね。

普通に、まともに読書をするとなると、何百ページもある新刊を読むとして、一週間はかかるはずですよね。速読ではなくて、きちんと一行一行読んでいくとしてですよ。

そうすると、年に十~二十何冊がせいぜい…てところでしょう。これがブローデルの「地中海」とか、プルーストの「失われた時を求めて」とか、あのような大著に取り組むとしたら、それこそ一年がかりの読書になるかと思います。

つまり、あの自称「読書家」といわれる連中は、じつはほとんど、まともに読んでないのでは?という疑念が沸いてくるのですよね。全体をチョコチョコっと眺めて粗筋を確認して、段落ごとの冒頭と結論だけ読んで満足している、そんなところではないですか?

だがしかしですね、速読のテクニックを使うと、たとえそれがどんなに巧妙かつ理に適っていたやり方だったとしても、読書で得られるいちばん大切なものが得られないのです。
それは何かというと、「体験」ということになると思います。
一行一行、かみしめるようにして読まない限り、「体験」を感得することはないのです。

速読だと、なにか大切な部分がごっそり抜け落ちてしまう。例えるなら、速読は「電話での会話」であり、対して一行一行読む遅読は「対面での対話」のようなものです。
私は超重量級の作品に関しては、かならず声に出してブツブツ呟きながら、端から端まで読みます。「読み終えるのが惜しい!」と思える本って、そんなふうに読まないと出会えないですよ。

名作や古典ほど速読ではまともに読めないですよ。トゥキディデスの「歴史」とか、速読ではまず読めない。1ミリも頭に入ってこないです...。速読で読むと途中でダレて、放り投げるのではないかと。

だから逆に、読んでみて、速読ではまともに読めないなと、と感じられないのなら、たいした作品じゃないのですよ。
本屋に行くと、「100万部突破!」みたいな本が平積みになってるじゃないですか?
たいてい、冒頭10ページくらいを立ち読みしてみると、斜め読みでもパァーって読めちゃいますよね。
あの手の「新書」の類ばかり読んでると脳が軟化して、アホになりますよ。たまには、ちゃんとした本に取り組んでいくべきでしょう。

小林秀雄の「無常ということ」とか、「福翁自伝」とか、どこの書店にも置いてて、いわゆるベタ過ぎて、あまり真面目に読まれてない本ですが、
あらためて読むと神本だったりします。

本屋はお宝の山です。


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