【短編短歌小説】雨の日も雲の上には太陽があるよと米に黄身落とす君
ピンポーン。チャイムが鳴る。間も無く、ガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえる。ギィっと玄関のドアが開き、さっきまでも薄っすらと聞こえていた雨音が部屋全体に響き渡る。僕はベッドから体を起こし、耳栓とアイマスクを外した。遮光カーテンの隙間からうっすらと光が漏れている。玄関のドアが閉まり、柔らかい足音が近づいてくる。極端に人の生活音を嫌う僕も、彼女が奏でる音を聴くと脳全体が幸福感に満たされる。最近のJKは「メロい」という言葉を気に入って使うらしい。僕も使ってみていいだろうか。もうすぐ21歳になるが、社会的に見ればまだまだ若者に分類されるはずだ。でも、どうしてだろう。高校を卒業してからもうだいぶ歳をとった気がする。精神的にも。そして、肉体的にも。メロい足音が止み、リビングの扉が開いて、彼女がひょっこり顔を出した。片手にはスーパーの袋がぶら下がっていて、アウターの肩の部分が濡れて水が滴っている。それを見てようやく僕は「ああ、雨が降っているのか」と気づいた。彼女はこっちを見て「やれやれ」というLINEスタンプみたいな顔をした。
「降られちゃった。ごめん。起こしたよね。」
「うん。だいじょうぶ。」
「家出た時には降ってなかったんだけど、スーパー寄ってるうちに降ってきちゃって。」
「そっか。結構強い?」
「うん。メロンみたい。」
「何が?」
「粒が。」
「ああ。それはメロいね。」
「うん。メロい。」
僕たちの会話の半分は適当に進行していく。最初に変化球を投げてくるのは大体彼女だ。彼女の名前は水奈。水奈は僕の大学のひとつ上の先輩だ。僕らは横浜文化大学の芸術学部に通っていて、2人とも演劇学科の演技コースに在籍している。水奈は演技をさせるととても優秀なのだが、普段は少し抜けているところがある。そのくせ芯はしっかりしていて、こだわりが強い。呑気と根気が絶妙なバランスで共存している。そして、僕にはめっぽう優しいという側面も併せ持つ。水奈はアウターを脱ぎ、ドアハンガーに掛け、カバンからタオルを取り出し、濡れたズボンを拭っている。僕はぼーっと水奈の動きを観察していた。すると水奈がこっちを向いて少し怪訝な顔をする。
「ねえ。それ飲んだの?」
「ああ、昨日の夜ね。」
「何%?」
「9%。」
「9%?薬は?」
「昨晩のは飲んでないよ。今から飲む。」
「またそんなことして。ちゃんと飲まないとダメだって。朝のもあるんだから。」
「うん。ごめん。」
僕は精神疾患を患っている。鬱病やパニック障害などを抱えている。なので毎食後に薬を飲む。ただ昨晩はお酒を飲んでしまったため薬は飲まなかった。医者によれば薬とお酒は相性が悪いらしい。水奈は薬を飲まなかった僕の体調を心配しているみたいだ。だから僕は反省しているふりをした。ただ、心の中では少しニヤついている。水奈に怒られるのは嫌いじゃない。いや、諭されるのは嫌いじゃない。そこには確かな愛情を感じる。僕はベッドから立ち上がって空き缶を握りつぶした。消毒液みたいな匂いが鼻をかすめる。それをゴミ箱に捨て、顔を洗う。水奈は冷蔵庫の前でゴソゴソしている。今日は2限から授業がある。一般教養の心理学の講義だ。どうやら先生がカウンセラーの資格を持っているらしく、水奈に勧められて履修した。せっかくだから教室の前の方で受けようと思う。適当に受けるのは何だか水奈に申し訳ない気がする。そんなことより朝ごはんは何だろうか。その時、キッチンからピーっと炊飯器の炊ける音がした。
「みずなー。今日の朝ごはんなにー。」
「だからこの前も言ったでしょー!」
※
僕はB棟の203号室にいる。B棟は演劇学科の建物だ。203号室は北側の壁が鏡張りになっていて、だだっ広い。今日は秋の公演に向けた練習があった。4年生の潮田さんが脚本と演出を担当していて、僕を含めた7人の3年生がキャストを演じる。僕らは全員演劇学科の学生だが、潮田さんが書く脚本はほぼコントだ。最近では演劇とコントの区別が曖昧になっているらしい。演劇学科なのでコントを忌み嫌う人も中にはいるが、僕は区別なく両方に取り組んでいる。演劇もコントも演技力が要であることに変わりはないからだ。今日は声出しから始まり、シーン練習を行った。潮田さんからは厳しい指摘が相次ぎ、皆んな必死に修正を重ねた。演劇を専攻する者の集まりなだけあって、仲良しこよしのお遊戯会とは一線を画している。さきほど練習が終わり、僕以外のメンバーはヘトヘトになって帰って行った。今は広い部屋に僕が1人、そして鏡に映った僕がもう1人残っている。早く帰りたいのはやまやまだが、潮田さんに「お前ちょっと残っとけ。俺飲み物買ってくるから。」と言われたため、理由も分からずぼーっと待っている。暇だから音楽でも聴こうと絡まったイヤホンをほどいていると、汗だくになった潮田さんが走って帰ってきた。
「ごめん。ごめん。B棟の入り口の自販機壊れててさ。A棟まで買いに行ったんだよ。ほらこれ。スポドリ飲めよ。」
潮田さんは僕に向かってペットボトルを投げてよこした。潮田さんはよくご飯を奢ってくれるので、ジュースの1本くらい奢ってもらっても不思議ではない。が、僕の心はそわそわしていた。潮田さんとふたりきりで喋るのは初めてだったからだ。潮田さんはジュースをごくごく飲んでいて、なかなか話しかけてこなかった。仕方がないので僕もジュースを飲んで間をつないだ。
「うまいな。」
「あ、はい。美味しいです。」
「どうよ。」
「どうよって、、何がですか。」
「いや、最近どうかなって。水奈とは上手くいってんの?」
「あ、はい。おかげさまで。仲良くさせてもらってます。」
「そうか。」
珍しく潮田さんの歯切れが悪い。そのため、無駄に広い部屋の中にほのかな緊張感が漂っている。隣の部屋から壁越しに音楽が聞こえくるのがせめてもの救いだ。
「水奈からはなんも聞いてないだろ?」
「え、あ、はい。たぶん、何も聞いてないです。
」
「実はさ、俺、卒業したらコントユニット作って、芸能活動しようと思うんだ。」
「コントユニット?すごいですね。それって旗揚げってことですか?」
「まあ、そんな感じだな。んで、この大学で演技が上手いやつを集めててさ。水奈も勧誘したんだよ。」
「水奈を?」
「そう、それで、水奈は就職先を蹴ってでも俺のとこに入りたいって言ってくれててさ。」
「そうなんですか?全く知らなかったです。」
「ああ、それは俺が口止めしといたからな。まだお前には言うなって。悪かったな。お前にとっても大事な話なのに。」
「いや、それは全然大丈夫ですけど。」
旗揚げは演劇をやっている者なら誰しもが一度は夢見るものだ。だから、それほど驚きはしなかった。それに潮田さんの創造力と水奈の演技力は本物だ。ふたりが一般企業に勤めるのはあまりに勿体無いと僕も思う。
「どうよ。どう思った?」
「えっと、、急なことなのであれですけど、水奈が演技の道に進むのは僕も賛成です。正直、水奈は会社に勤めるよりも演技の方が向いてるっていうか。逆に会社に勤めるのが向いてないっていうか。本人も就活のときにそう言って悩んでましたし。」
「そっか。まあ、お前が反対じゃないならいいんだ。よかった。よかった。で、ここからが本題なんだけどよ。単刀直入に言うと、お前も入らねーかって、そう言う話なんだよ。」
「え、僕がですか?」
「そう。俺は取り敢えず演技が上手いやつが欲しいのよ。もちろん大学は卒業してからでいいからさ。一緒にやってくれねーかなーと思って。」
潮田さんは真っ直ぐな目で僕を見つめた。さっきまでの歯切れの悪さはもうすっかり消えている。油断をすると軽率に答えを出してしまいそうな気がした。僕は暴走しかける心臓の鼓動を必死に抑えながら額の汗を拭った。
「でも、水奈は入るんですよね?」
「ああ、そうだな。やっぱり恋人と一緒だとやりにくいか?別れた時に困るもんな。」
「あ、いや、それは別に大丈夫です。仕事とプライベートは分けれます。」
「そうか。じゃあ入るか?」
「うーん、、でも、水奈が演技の道に進むなら僕が会社に勤めた方が良くないですか?潮田さんには申し訳ないですけど、演技の道でお金を稼げる保証はないですし、僕が安定して稼げれば水奈の生活も支えられますし。」
口から出たのは本心だった。僕がある程度の収入を得て水奈を支える方が現実的だと思った。それに僕には潮田さんや水奈のような実力はない。もっと言えば、夢を追いかけるバイタリティもない。ただ一つ、水奈のためにできることがあれば、僕は全力でそれをやりたい。心の底からそう思っているのだ。
「まあ断られることは覚悟してたんだけどよ、けどな、お前は水奈の奴隷じゃないだろ?水奈のことは一旦忘れて、お前は何がしたいんだよ。お前は演技の仕事したくねぇのか?」
潮田さんは語調を強める。思えば、潮田さんは僕と水奈の関係性に口出しできる数少ない人物だ。だからこそ、今、波風を立ててまで大切なことを僕の心に問うているのだと思う。そして、僕はというと、明らかな人生の分岐点を目の前にして少し怯えていた。ただ、現状でも、はっきりしていることが二つある。一つは、潮田さんの言うことはいつも決まって正しいということ。もう一つは、僕は正しさを根拠に生きられるほど強い心を持ち合わせてはいないということ。故に、僕は、迷わず潮田さんの誘いを断った。
「あの、、すみません。水奈のことを忘れることはできません。極論を言えば、僕は水奈の奴隷でもいいんですよ。水奈がいなかったら今の僕はいないんです。比喩じゃなくて、本当にこの世にいないんです。だから水奈が僕を必要としてくれる限り、僕は水奈のために生きたいんです。」
「そうか。まあ、お前の生き方に口出しする権利はないからな。分かった。ただ、秋の公演に関しては徹底的にしごいてやるから覚悟しろよ。」
「はい。お願いします。」
「よし。飲み行くぞ。」
「え、昼からですか?」
「悪いか?」
「いえ、行きます。」
返事をした時には潮田さんはもう部屋から出ようとしていた。僕は急いで荷物をまとめ、部屋の電気を消し、潮田さんの後を追いかけた。
※
真っ暗な天井を見つめていた。外が暑いからだろうか。冷房がいつもより効いている気がする。布団の中で水奈が僕の体にコアラのようにしがみついている。実際に触れ合うと水奈の体はこじんまりとしている。手も足も何もかもが小さい。だから余計に守ってあげたいと感じる。実際には守ってもらってばかりなのだが。「おやすみ」と言ってからもう30分は経つだろうか。たまにモゾモゾと動くので水奈はまだ寝ていないのかもしれない。じっとしていると水奈の体温を肌で感じる。なんて幸せなんだろう。そう思いながら目を閉じかけた時、水奈がむっくりと起き上がってこっちを見た。
「ねえ、直樹。」
「ん?どうした?」
「一個聞いてもいい?」
「うん。なに?」
「例えばだよ?例えば、私がこの世からいなくなったらどうする?」
「悲しむ。」
「悲しんでどうする?悲しんだ後は?」
「んー、、、。」
「死ぬの?私がいないと直樹は死ぬの?」
水奈は悲しげな表情を浮かべた。真上からエアコンの作動音が聞こえてくる。僕は水奈の手を握って苦し紛れに尋ねた。
「なんでそんなこと聞くの?」
「あのね、直樹が鬱病で落ち込んでる時、私は直樹を助けたいと思った。元気になって欲しいと思った。」
「うん。」
「だから、今、薬を飲みながらでも一緒に生活できて嬉しい。直樹の笑顔が増えて嬉しい。」
「うん。」
「それでね、直樹が私の幸せを1番に思ってくれてるのはすごく伝わる。嬉しい。でも、でも、もし私がいなくなったら直樹はどうなるのかなって不安になる。例えばもし私が死んじゃったらって。死ななくても、もし私たちが別れたらって。そしたら直樹が死んじゃうのかもって考えたら不安になって眠れない。怖くなる。」
「そっか。」
「うん。」
「じゃあ約束するよ。水奈がいなくなっても僕は死なない。長生きする。」
適当に答えたわけではなかった。ただ、水奈が望んでいる言葉をかけてやりたいと思った。水奈が僕の手を握り返してくる。水奈の脈拍がだんだんと落ち着いてくるのが分かる。
「ほんと?」
「うん。あと病気も頑張って治すよ。」
「絶対?約束する?」
「うん。約束する。」
「分かった。じゃあもう寝るね。おやすみ。」
「おやすみ。」
水奈に依存しすぎてはいけない、それは分かっている。分かっていても現状は簡単には変えられない。おそらく、水奈がいなくなって死ぬより、水奈がいないこの世を生き続けることの方が辛いだろう。ただ僕は、辛い方を選ぶことを約束した。水奈のために生きると決めた僕が水奈との約束を破るわけにはいかない。いつか、死ぬよりも辛い日々が来たとしても、僕は甘んじてそれを受け入れる。そう覚悟した夜だった。
※
目が覚めると僕はベッドの真ん中で寝っ転がっていた。水奈はもう起きてるみたいだ。かなり強い雨音が部屋全体に響き渡っている。立ちあがろうとした時、右半身の痺れに気づく。どうやらコアラは一晩中僕にしがみついていたみたいだ。僕は立ち上がり洗面台に向かう。冷蔵庫の前でゴソゴソしている水奈に「おはよう」と声をかけ、顔を洗う。その時、キッチンからピーっと炊飯器の炊ける音がした。
「みずなー。今日の朝ごはんなにー。」
「だからいつも言ってるでしょー!雨の日は卵かけご飯!早くおいで!ちょっと高い卵買ったんだから!」
雨の日も雲の上には太陽があるよと米に黄身落とす君