【 読書感想文 】『 敵 』老いをひしひしと感じられているかたに
筒井康隆氏は、ひとりの人間を造りあげた。
神はひとを泥から造りだした。
筒井康隆氏は、文字でひとつの人格を書きあげた。
75歳の老人、儀助をインクで錬成しきった。
儀助の職業から交流関係、そして住んでいる家から一日の生活までをルーペをのぞきながら、さまざまな毛を集めてつくる毛ばりのように書きあげている。
儀助が、朝起きて、何をするか、何をかんがえるのか、何を食べるのか、何を飲むのか、「しつこいわ!」といわれるほどに、みっちり綿密に、こてこてに書きこんでいる。
このしつこさに耐えられるか、耐えられないか、そこが『 敵 』をおもしろいと感じるか感じないかの関ヶ原。
一章をつかい食べることだけを書き、飲むことは別の章で書く。
おれのような小説家であれば、食べること、飲むことをひとつの章で書いてしまうだろう。
別々の章に書きわける技術を盗もうと、小説を読みかえしているが、とてもとても。
家の間取りなどの描写には、八百万の神が宿っている。
食べるもの、飲むもの、吸うもの、観るもの、いたすもの、すべてが想像で書かれたのか、筒井康隆氏の趣味もはいっているのか、このあたりの境界線は曖昧である。
年金から預貯金の額、そして、講演の依頼料。
などなど、すべてが現実的なのだ。
儀助は、大学でフランス近代演劇を教えていた。近代演劇のことも書かれており、教授の講演の依頼料などもしっかりと書きこまれている。
筒井康隆氏の頭のなかには、どれだけの知識が梱包されているのか。
儀助、もしくは、筒井康隆氏の好きな映画についても丸々一章をつかい書かれている。
そういえば、文豪とよばれるひとたちは、映画もよく見ているな。
映画も小説も漫画も音楽もたしなんでいる筒井康隆氏の生活リズムはどうなってんだと思った。
日常をしっかりと書かれている。なので、クドいと感じられるかたもいるかもしれない。
そのクドさをうけいれられるかたは、思う存分に哲学者とも求道者ともいえる儀助の姿をたのしめる。
クドさをうけつけられないかたは、部屋のすみに『 敵 』を放りなげるかもしれない。
クドさをうけつけられるか、うけつけられないか、そこがワーテルローの戦。
さて、『 敵 』が、おもしろい小説か、どうか。
頭髪に白いものがでてきた、腹がでてきた、すこし歩くだけで息がきれる。
老いをかんじられるかたは、おもしろいと感じられると思う。
儀助の粛々と死をうけいれつつ、騒ぐでもなく、浪費するわけでもなく、淡々とした暮らしは禅僧の高僧のようにも見えてくる。
死は怖くない。
筒井康隆氏のお得意のハイッデガーの死の魁の一端にふれられる。
老いも死も気持ちの持ち方ひとつで愉しいものになる。
毎日をしっかりと節度をもって、健康に生きる。
人生80年の指標になる小説、それが『 敵 』
哲学者ハイッデガーのことで、ひとつ思いだしたことがある。
物語の終盤で哲学者の始祖にちかいアリストテレスの神についての解釈を儀助が講義している。
その講義の説明は、いくぶんむずかしいものの、原文を読むよりも、心にすんと落ち、理解しやすい。
筒井康隆氏は、むずかしいことを簡単に説明してくれる天才だと思っている。
『 文学部唯野教授 』でも、むずかしい哲学についてわかりやすく語ってくれている。
『 文学部唯野教授 』を読むだけで、こむずかしい哲学批評について、おおまかに知ることができる。
話を『 敵 』に戻す。
『 敵 』の解説にこのように書かれている。
「老人文学の傑作である」
たしかに、傑作といえる。
老人文学の最高峰といえる『 老人と海 』が生と希望であるとすれば、『 敵 』は、死と節度だと対比できる。
これからも日本では、『 敵 』を超える老人文学は出版されないとも思う。
よくぞ筒井康隆氏は『 敵 】を書きあげ、新潮文庫はこれを出版しようと決断したなと驚かされた。
ただ、ひとつだけ小生が意見するなら、『 敵 』には夢を混ぜるべきではなかった。
そのように思う。
現実的な小説『 敵 』には、筒井康隆氏のライフワークである夢を混ぜると、現実感がすこしゆるむ。
そして、現実と夢の境界があいまいになる。
夢を混ぜずに、あくまで現実一本で書いたほうがよかったのでは、そのように考えた。
さて、最後に『 敵 』については、ご自分の目でご確認ください。
敵は行間にひそんでいるのか、人の心、世間の空気にひそんでいるのか。
『 敵 』のなかで、あなたの敵を見つけてください。
祝映画化。