見出し画像

【 読書感想文 】『 虚人たち 』1981年に書かれた革新的な実験小説 読むひとはえらぶ

『 虚人たち 』は、1981年に書かれた。
昭和とよばれた時代の小説である。
けれども、いまなお見かけることがない革新的な実験小説である。
もしかしたら、誰かがおなじような小説を書いているかもしれない。
私が読んできたなかには、同じような小説は存在していない。

『 虚人たち 』は、万人うけしないと思う。
玄人むけの小説といえる。
物語そのものは単純ではある。
けれども、単語がむずかしい。哲学用語が、ポンポン出現する。
さらに、読点がひとつも打たれていない。
余談になるが、読点を打たない作者として有名な吉田健一がいる。
だれかが対談で吉田健一が早死にした原因は、読点を打たなかったからだといっていた。
筒井康隆氏の御年を見るかぎりでは、読点と寿命に関連性はないようだ。
読点がなくても文章は読める。読めるのだけども、ひどく疲れる。
もしかしたら、疲れないひともいるかもしれない。
なんだか、読んでいるとすぐに眠くなった。
筒井康隆氏の小説のなかで、もっともよく寝むりにいざなわれた『 虚人たち 』

さて、『 虚人たち 』のなにが革新的な実験なのか。
まず、物語の主人公は、自分が作中のなかの人物だと認識している。
いまでいうなら映画『 デッドプール 』とおなじように、物語のなかの人物だと気づいている。

あるひ、とつぜんに物語の主人公に設定されてしまう。
そして、主人公をうごかす、超常者たる作者がいると確信している。
ゆえに、動機というものがない。
なにかが起こった。それは、超常者たるものが、物語をうごかすための出来事であり、出来事にひきつけられ役割を淡々とこなす。

さらに、『 虚人たち 』に登場する人物ひとりひとりが、別の物語の主人公でもある。
なにをいっているんだ、と思われたかたもいらっしゃるでしょう。
勇者がいて、村人がいる、竜を退治にいく勇者は、とうぜんにの主人公だ。
ただ、村人も朝起きて、田をたがやし、牛の世話をしたりする物語の主人公である。
よくよく考えてみると、人間ひとりひとりが、自分の人生の主人公でもあるわけで、小説の登場人物ぜんいんが、主人公であってもおかしくないのかもしれない。
『 虚人たち 』に登場する人物たちは、個々の物語の主人公であり、それを認識している。
ゆえに主人公のほかの登場人物たちは、『 虚人たち 』の物語と積極的にかかわろうとしない。
このあたりが非常に難解で、妻や娘などの扱いはどうなっているのか、会社の上司や同僚をまきこんだ会話などはつかみどころがない。

つぎに、省略がない。
たとえば、車にのった、目的地についた。ふつうの小説であれば、それだけですむ。
『 虚人たち 』たちは、どのような車か、走っている道路、見えている風景、落ちているゴミ、到着した目的地の様子などが、しっかりと書かれている。
冗長すぎると感じられるひともいらっしゃる。
いや、描写にうんざりさせられるかたのほうが多数だろう。
そして、主人公の思考を飛ばすことなく、綿々と書きつらねている。
人間は考える葦である。言葉の意味はわからんが、『 虚人たち 』の主人公は、つねに考え続けている。
寝たり、気絶したり、するときは、どうするのか、それは『 虚人たち 』を手にとりご確認ください。

なにか普通とちがう小説を読みたいかたにオススメの『 虚人たち 』


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集