『 喪失の日 』筒井康隆さんが書いたドタバタコメディの最高傑作ここにあり
むずかしいことを、やさしく書く。それが名文の条件のひとつだと言われている。
であるならば、マジ卍難解な『 文学とは何か 』をやさしくかみ砕き『 文学部唯野教授 』や『 誰にもわかるハイデガー 』 を書きあげた筒井康隆さんは名文家といえる。
ちなみに『 誰にもわかるハイデガー 』を読んでも何もわからなかった。おいおい、大丈夫かよ、と思った方もおおいだろう。レビューを視たら、みんなハイデガーを分かっていた。誰にもから、私がボッチられていただけである。
人を笑わす文章とは、作者が笑ってはいけない、と書かれていたのを思い出した。笑い話を他人にしているときに、オチを話す前に笑ってしまう人間になってはイケナイのである。
筒井康隆さんの文章は、チッとも笑っていない。『 喪失の日 』は8~9割、いや果汁100%ぐらい、原材料は、エロス・妄想・下ネタ100%の短篇小説だ。下ネタで笑いをとるのは低俗・最低の二等辺三角形の極致だと思っている。
下ネタ100%の『 喪失の日 』は、くやしいけど最後まで読まされ、土俵から叩きだされ、トップコーナーからダイビング・ボディープレスをくらったような衝撃を文章からうけた。
ポキポキと真面目に淡々と笑わずに書かれている文書のスピード感は「あほらしい」と本を放りだすスキを与えてくれない。一行読めば、二~三行スラッと読まされてしまうのだ。
自慰をしたあとに文章を書いたヘミングウェイのようにハードボイルドかつ簡潔な文体、かつ、チェーホフのように人の深淵を覗きこみ達観した文章。
コメディーでありながら、ハードボイルドかつ重厚な文章で書かれた抱腹して七転八倒し絶倒する短篇小説『 喪失の日 』を、短篇の名手である筒井康隆さんの最高傑作にあげるかたは多いだろう。
『 文学部唯野教授 』には、知識と学のない人間が、好きだ嫌いだをモノサシにして批評をしてはいけないと書かれている。筒井康隆さんもここまでは眼を光らせていないだろう、光らせていないでください。ノートノスミスに『 最後の喪失 』を読んだ感想を夜這いをするようにコソッと書いておこう。
『 喪失の日 』は、このような一文からはじまる。
名作と呼ばれる小説は、冒頭がすばらしいというの通説だ。木曽路や雪国、城の崎、猫などが有名なところだろうか。それらに負けないすばらしい冒頭である。「若者~小便が近い」若者の9割ちかくは小便がちかい、つまり、読者の9割は、主人公に親近感をいだき、主人公を応援し、自分化してしまうテクニックが使われている。
つぎに『 わらい 』とは、変わった名前である。ここに作者のメッセージがこめられているのが視える。まずは、(笑)っていい作品だと示しているのである。なるほど気楽に読んでいいのだなと思った読者さまは、あまい、ラブジュースよりも、精子よりもあまいと言わざるをえない。
なぜ、笑や和良、稿でなく、藁を選択したのか、このメッセージを見逃してはならない。藁には、何があるかを考えなければならない。そう藁の中央に穴があるのである。これからドタバタをくりひろげる藁井勇の行動には穴があり、落とし穴のようなオチがあるというメッセージなのである。
つまり、穴はなにか、オチはなんだ、伏線はどこだと、しっかり読み解く必要があるゾというメッセージをしっかりと感じ取らなければならない。これは、挑戦的な冒頭なのである。冒頭の数行にこれだけの罠がはりめぐらされているのである、頭が子供、体が大人の人間は。この罠に気づかないのである。これが、名作と呼ばれる冒頭でなくて、なんだと言うのだろうか。
すこし読者を驚かせすぎたように思う。かんたんに『 喪失の日 』のストーリーを紹介しよう。
ストーリーはいたって単純。主人公が童貞を喪失するまでの1日を書いているだけの短篇小説だ。レモンを本屋に置いたり、タバコ屋にタバコを買いにいくよりも物語がある短篇小説である。
主人公は24歳の男の社会人。勉強ができ、スポーツに打ちこみ、出世欲があるパワフルな人間であるが、童貞を捧げる女性と結婚をする気はない。真面目なのかクズなのか、真面目にクズなのか分からない男である。
童貞を喪失する女性の基準を書いた文章などは、いまのご時世であれば、ケガをおった牛がアマゾン川に落ち、たちまち白骨にされてしまうピラニアのようにフェミさんが集まってきそうである。
『 喪失の日 』を女性にオススメできるかと尋ねられると、聖母マリアのように寒い納屋で出産できるような我慢強い女性や、男ってバカなことばかり考えているなとカラカラ笑える女性、小説家を目指している女性たちには、テレビ通販のタ◯カ社長ぐらい自信をもってオススメしたい。
ジュリア・クリステヴァ氏が唱えるところの、人間はシュークリームだという説がある。主人公のクリームは、脱童貞、射精、おっぱい、腰、S◯Xがベトベト・ネトネト・ねちゃねちゃしている真っ白で濃厚かつ、イカと栗の花の香りがするクリームである。
頭のなかが、妄想や欲望、射精、脱童貞の瞬間のことばかり考えていた、あの時代。昔を思い出し赤面する男性、ほうほう脱童貞の勉強になるなと思う男性に分類されるだろう。
SEXをいたす工程やホテルやコンドームの代金、コンドームの装着方法、女性の服の脱がし方、どの穴につっこむのか、童貞が考えそうなことを、微に入り細を穿つように、1日中悶々と鼻息あらく主人公は考え、改善、対策をたてます。
おなじパンツを6日間はいていたことに気づいた文章は珠玉である。1~2日はパンツが発酵し熱をおびる。3~4日になると、掃除をしていない公衆便所のようなすえた匂いがしてくる。5~6日目に達すると熟成しきった丸いノーブルかつ黒いエレガントさに昇華したスメル。あの懐かしき香りを思い出した。主人公はパンツをはきかえたのは失敗であると断言できる。あのスメルで女性をクラッとさせられたのにな。
さて、筒井康隆さんは、なぜ童貞が考えそうなこと綿密に書けたのか。作者の体験からであろうか。否であると私は考える。
なぜか?筒井康隆著の『 創作の極意と掟 』に、このような文章が書かれている。小説家たるもの、妄想を追及しつくすことが大事だ。考えるだけであれば、捕まらないのだから、頭のなかで、卑猥、アホらしい、吐き気のするようなおぞましい想像をトコトン追及し、忘れ、心の底にしまっておく。そのしまっておいたものが、ある日ピカリと小説のアイディアになることもあると。
ナンパしている男、チンポを勃起させている新入社員の男性、Barで女性にすりよっている男性を観察し、頭のなかで妄想を遊ばせ、阿呆と呼ばれようがかまわず、心の底に堆積させたアイディア。それが堆積し、隆起し、ドタバタ小説の原型となり勃起し、天井にあたるほどの勢いでアイディアが射精し産まれたのが『 喪失の日 』であるように思われる。
ドタバタをくりひろげる主人公は、童貞を喪失できたのか、そのことには触れないでおく。話の核心ではないが、ミステリー小説で「こいつ犯人でっせ」と教えるようなものだからである。
あと少しだけ、想像の穴を掘りさげてみようか。ある日、アイディアがふきだした結果が、『 喪失の日 』だと書いた。ではなぜ作者は、この作品を書こうと思ったのか。
『 喪失の日 』が発表された年は、昭和49年。アラフォーの私ですら、オギャーのオすら声にだしていない時代だ。この時代の若者たちは、眼がギラギラしており口をひらけばSEX、オ◯ンコなど口走っていた若者がおおかったのではないだろうか、そんな若者を揶揄して書かれたのではないだろうか、と作者の心を想像してみた。
昭和から平成、令和となり、性欲がなくなったサトリ世代と呼ばれる世代も産まれだした。作者としては、SEX、オ◯ンコといっていた若者のほうがマシだった、と考えたりするのだろうか。サトリ世代は、『 喪失の日 』の主人公の思考・性欲・行動の原動力を理解できるのであろうか。
私は氷河期世代だ。ハタチをすぎ、童貞を卒業していない男をヤラハタと呼びバカにする習慣があった。ヤラハタは、なんかアカンと思い、それこそ『 喪失の日 』の主人公のように行動したもんだ。そして、失敗や挫折といろいろと経験したものさ。喪失チャンスに、緊張し起たなかったり、勢いをつけようとアルコールを飲みすぎて起たなかったり、オナニーのしすぎで射精障害に陥ったり、色々と経験したものさ。
若者よ、若いうちに性に興味もち、パワーがあるうちに失敗や挫折を経験しておけ。失敗や挫折がこわい?ならば、『 喪失の日 』を読み、パワーを分けてもらえ。
アラフォー独身童貞からの、血の涙を流しながらのアドバイスですゾ。
『 喪失の日 』が収録されている『 最後の喫煙者 』は、芥川賞を受賞したピース又吉さんと、メフィスト賞『印象に残った作品』のふたごや こうめ先生の推薦図書です。
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生きる伝説とかしたシーラカンスのような文豪筒井康隆氏について語りあかしましょうぞ。