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タイトル「月影の沈砂の星」
目次
第1章 砂漠の序曲
アシャラの過酷な大地/アル=マーダ家の青年アマーン/官僚的日常への嫌悪/自由への希求
第2章 遊牧民との邂逅
旧市街区での迷い/シュベル族の若者との出会い/シュメイル観察行への誘い/砂上の共生を垣間見る
第3章 朽ちゆく水脈
水資源の枯渇兆候/シュメイル減少の原因を探る/カロン商会とアル=マーダ家の不穏な取引/生態系破壊の片鱗
第4章 月影信仰の予兆
預言者たちの歌声/月影降臨の夜/警告めいた幻視/啓示を抱える預言者たちの神秘
第5章 権力の陰影
アル=マーダ家の密室謀議/預言者拘束の計略/カロン商会による権益拡大/迫りくる不安定な均衡
第6章 砂嵐下の決断
シュベル族の決起/アマーンの内なる覚醒/盟友との密会/囚われた預言者救出への準備
第7章 地下洞窟の啓示
砂嵐を超えて/秘されし聖地への潜入/預言者の解放と真実の告白/アシャラ滅びへの警鐘
第8章 露見する陰謀
地下資源採掘の闇/民衆への啓示拡散/アル=マーダ家内部の崩壊/カロン商会との決別
第9章 民意の胎動
市民集会の開催/環境復興と持続可能性への提案/宗教的権威と遊牧民の知恵の融合/新たな合意形成
第10章 月影に響く歌声
預言者の歌が星空を包む夜/シュメイル保護計画の始動/旧き支配構造の終焉/アシャラが選び取った未来
第1章 砂漠の序曲
――アシャラの過酷な大地/アル=マーダ家の青年アマーン/官僚的日常への嫌悪/自由への希求――
太陽がアシャラの地表を焼き始める頃、空気はすでに乾ききっていた。微細な砂粒が昇りゆく熱気に揺れ、遠景の岩稜を蜃気楼のように歪ませる。大地は、いつ終わるとも知れぬ砂漠の連なりと、時折突き出る刀刃のような岩の峰で構成されている。ここでは生きること自体が挑戦だった。人々は、限られた水脈とわずかな植生を巡り、長い歴史を紡いできた。この過酷な環境が、アシャラの文化・政治・宗教・経済すべてを形作っているといっても過言ではない。
アル=マーダ家の屋敷は、その中でも比較的恵まれたオアシス近くに建てられていた。一族は代々、この惑星で特権的な地位を保ち、民衆の上に君臨してきた。形式ばった儀式、官僚的手続き、絹の衣服に香料が染み込んだ静謐な廊下、それらはアシャラが内包する苛烈な自然とは対照的な、人工的安定を示す象徴だった。
アマーンは、この屋敷の一室で、くぐもった息をついた。十七の歳月を経た青年は、薄暗い書庫で役人見習いとしての業務に没頭するよう命じられている。彼の仕事は帳簿の数字を整理し、カロン商会との交易記録を点検し、そして上官がいつ視察に来ても不備を指摘されないように細心の注意を払うことだった。一見すれば、一定の尊敬と安定が約束された暮らしである。だが、アマーンにとっては、これこそが息苦しさそのものだった。
「水脈の収支報告書は……これで合っているのか?」
彼のそばで静かにページをめくる年配の書記が問いかける。その声は乾いた巻き舌音、砂漠に吹く風のように淡々としている。アマーンは細いペンを指先で転がしながら、一枚一枚確認した報告書を再点検した。水脈の管理、オアシス防衛費の帳簿、カロン商会への輸出に伴う関税――どれも数字の羅列だ。そこに生命の息吹を感じることはない。ただ権力の維持と利益の算出、それが淡々と続く。
彼は時折、窓の外を見やった。薄い布越しに差し込む光は強烈で、外気はおそらく砂嵐の前触れのような熱波を孕んでいる。高位の役人たちは、こうした自然の猛威を遠くに感じながら冷静に計算し、調和を演出することに長けていた。彼らはアシャラという名の舞台で優雅に踊る踊り子のようだったが、その足元にはひび割れた大地が広がり、いつ飲み込まれるかも分からない。その深い矛盾が、アマーンの胸を重くする。
彼は幼い頃から、砂漠の向こう側に無限の自由があると信じていた。父は官僚として古くから仕え、母は一族の礼法に厳しく、彼が幼少の頃から文字や計算、礼儀作法を叩き込んだ。だが、アマーンが本当に知りたかったのは、帳簿の数字ではなく、砂の海を渡る風の音や、星々が一斉に輝く夜空の秘密だった。
昼下がり、しびれるような空気の中、アマーンは書庫を抜け出す口実を探していた。「上官に頼まれた資料を倉庫へ取りに行く」という、いくらでもごまかしが利く理由を整え、石造りの廊下を静かに進む。屋敷の外壁に近づくと、淡い光が目に痛い。そこには、干上がりかけた小さな庭園と、微細な水脈を守るための水甕が置かれている。元々豊富だった水脈も、近年は減少傾向にあると小耳に挟んだ。原因は過剰な地下資源の採掘だと囁かれているが、公式には何も発表されない。
庭の片隅にしゃがみ、指先で砂を掬う。砂粒が指の間をすり抜け、風に乗って散っていく。その一瞬、彼は血潮が急に熱くなるのを感じた。あの果てしない砂漠を歩くなら、どんな感覚だろう。乾ききった大地に足を下ろし、危険と奇跡が混在する荒野で、彼は本当に「生きている」と感じられるだろうか。
遠くで、屋敷の警備兵たちの声がする。彼らは規則正しく回廊を巡回し、外界からの不審者や盗賊を防ぐ。だが、アマーンにとって外界のほうがむしろ魅力的だ。生き生きとした危険と未知が詰まっているに違いない。彼は胸中で思う。「いつか、砂漠に飛び出そう。書類や官僚制度に縛られず、シュメイルの生息地や遊牧民の集落を目にしたい。星の精霊が囁く夜の月影を、自分の目で確かめたい。」
その想いを振り払うように、再び屋敷の中へ戻ると、書記が問いかける。「おや、随分遅かったな。倉庫で何かあったのか?」
アマーンは曖昧に微笑む。「少し資料が探しづらくて……」と嘘をつく。その場しのぎの言葉はいつも通りだが、胸の内にはもう一つの明確な言葉が宿っている。それは「自由」。
この言葉が彼を外へ駆り立てる日が、そう遠くないことを、アマーンは薄々感じていた。
夕暮れが近づくと、砂漠は色を変え、淡い紫の陰影を帯びる。屋敷の中ではランプが灯され、廊下を柔らかい光が漂う。アマーンはその光を見つめながら、己が立つべき場所は本当にここなのか、と自問する。周囲は彼に安全と地位を約束しているが、それが生きることの全てなのか。外界には、まだ見ぬ人々や文化、そして試練が待ち受けているはずだ。それこそが、生命の躍動ではないのか。
砂漠の序曲は、まだ微かな旋律しか聞こえない。それでも、アマーンの耳には確かにその調べが届いている。その音色は、彼を遠く呼び寄せる旅の誘いなのかもしれない。
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