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17.サーカス団

 上野動物園の処分後、サーカスで飼育されている猛獣たちも問題となった。

ハーゲンベック動物園大サーカス・絵はがき(所有:みかみうこん)

「昭和18年10月21日、大日本興業協会の仮設興業部会に加入している28団体に対して、警視庁より猛獣類については、同月28日午前10時までには処分するように指示がなされた。方法については、自発的処置ということであった。この28団体の所有している主要動物としては、合計でライオン52頭、インドゾウ7頭、ヒョウ8頭、トラ2頭、ヘビ58頭、クマ6頭が処分の対象と考えられたが、このうちゾウについては、所置保留とすることになった。」(※1)

 自発的な処分だったので、どのくらい処分されたかは定かではない。

 「安らかに眠れ獅子さん けふ殉国動物の慰霊法要執行」(※2)

 12月3日午後10時に、築地本願寺で「大東亜戦争殉国動物慰霊法要」を行いました。サーカスで飼育された60頭の猛獣の供養である。この1カ月で、これだけの動物を処分したのであれば、新聞などで話題になっているが、そういった情報がないので、処分を行ったと言った形式上の法要である。
 到津遊園にいたゾウは、有田洋行サーカス団へ譲渡され、朝鮮で殺された。(到津遊園を参照)甲府市では、荒川の河川で猛獣たちを射殺した(甲府市立動物園を参照)。どれもうわさ程度のものであった。
 岩手県一関市で起こったサーカス団にいるライオンの処分には証拠があった。同市に昭和19年に、黒須曲馬団というサーカス団が興業に来ていた。動物に肉を食べさせるのは贅沢という警察の命令で、同年5月6日の朝、4頭のライオンが射殺された。(※3)
 実際、射殺した本人である菅原東太郎氏の証言である。

 「空襲激化の折危険予防の為、市内で興行中の曲馬団のライオンを射殺してくれ、と警察から依頼があり、猟友2名と現場に行くと、小屋の中央に親子4頭の檻が並べてあった。私が年長なので初矢を承る。矢先を考え、1米の台上から射下ろすことにし、距離を5米、12番2連にアイデアルを填めた。エチオピア産偉大な獅子は早くも殺気を感じて立上がった。弓矢八幡と祈って前額部に一発。どんと参ると思いきや流石は百獣の王、眼光炯々牙をむき檻を破らんばかりの猛反撃、もの凄い断末魔の咆吼に人々は戦慄、道行く馬は立竦んだ。斉射五発を浴び王者らしい往生。母子三頭は各一発で成仏したが、立会った人々の顔は全部が蒼白である。骨は私の菩提寺に葬り、来恩塚を建て毎年の命日には供養をしている。」(※4)

 来恩塚は、処分から33年後の昭和52年(1977)5月6日(射殺された同じ日)に供養のために猟友会の方が、円満寺に塚を建てた。

  黒須曲馬団所属
  ライオン 四頭
  昭和十九年五月六日逝
  第二次世界大戦の犠牲に
  なり、一関警察署長の命
  令により銃殺される。

 このように塚の裏に書かれている。(※5)
 この悲劇を扱った絵本「ライオンの涙」、著者の元教師の斎藤三郎さんは、子どもたちに戦争の愚かさを伝えたいと願い、小学生でも理解ができる内容にしました。
 斎藤さんは、処分場となった地区の方からは、殺されるときの鳴き声をたくさんの方が聞いていて、実際にライオンの肉を食べた方もいたのである。
 絵本が出されてから、父が殺されたライオンの解体をしてキバを保存していた方がいて、斎藤さんにそのキバが送られてきた。
 この一例だけでも壮絶な最期でした。戦後、サーカス団の猛獣たちが生き残ったという証言や証拠はありません。他のところでもこのような惨劇があったと思われる。

※1 上野動物園百年史 東京都 181頁 引用
※2 北海道新聞、昭和18年12月3日付 参考
※3 朝日新聞(岩手県版)平成20年(2008)8月5日 語り継ごう戦争「動物たちの悲劇二度と」 参考
※4 「空襲激化のためライオン射殺」記事、調査をしている齋藤三郎氏からもらった記事ですが、どの本だかはわからないとのこと。引用
※5 齋藤三郎氏からの資料提供

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