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5.神戸市立諏訪山動物園        (現・神戸市立王子動物園)

 明治36年6月に完成した諏訪山遊園地が、期待されたほど入場数が多くはなく、その打開策として、昭和3年(1928)6月22日に動物園を開園させた。昭和6年(1931)に拡張工事を行い、オスのゾウ「ダンチ」を購入して動物たちを充実させていった。(※1)

オスゾウ「ダンチ」絵はがき(所有:三上右近)

 昭和18年9月2日に、上野動物園の猛獣処分が発表された時、視察を名目に、市の教育局長が動物処分命令を懐にしながら来た。
 飼育主任の松村は、教育局長の目の前で檻の中に入り、ライオンの頭を撫でたり、ワニの背中をさすったりして
 「猛獣といっても、こんなにおとなしいものなんですよ」(※2)
と一生懸命に訴えた。
 諏訪山は市街地にあり空襲の対象になり難く爆撃機が来ても、目標にならなかった。それは、山あいにあり、山の横腹をぶち抜いて洞穴になっているため、自然の要塞(ようさい)となっていた。
 西出園長は言う。
「檻は日本一の頑丈さで、爆風くらいではビクともしない。もちろん直撃弾なら猛獣とも戦死を免れないが、間違って檻から出た時は12連発の猛獣射実弾で射殺との万全の構えである。」(※3)
 さらに言う。理想の立地条件と万が一の備えにより、空襲警報の際には心配ご無用と語った。

 しかし、軍部は許さなかった。

 処分に時期については、2つの説があった。
 ① 昭和18年9月19日付、神戸新聞に「猛獣よ極楽往生あれ」という見出しの付いた記事が掲載され、近く猛獣たちが処分されるとの内容である。
 ② 昭和26年(1951)3月15日付、神戸新聞では、昭和19年7月~9月の間で処分されたと掲載されている。
 結局、昭和19年初旬に動物園の様子を伝えた資料があり、動物園では猛獣の処分が行われていない記載があった。(※4)よって、②と断定した。
 当時の市長が軍部から要求を断ることができず、処分を決定し、憲兵隊も直接出向いたりした。(詳細は「第3章 関係者たちの苦悩」)
 処分した動物であるが、一覧表(資料)の中で、〇の付いているものは確定はしているが、何種何頭はわからない。ただ、確実なのは5種8頭である。それなりに資料があるのに、処分日や処分動物がこれだけ曖昧なのはなぜなのか疑問が残ってしまった。

戦前のヒョウ・絵はがき(所有:三上右近)

 そんな状況の中、市当局に知られないように、松村と飼育員たちと共謀し、朝鮮から来たオオヤマネコを一頭、猛獣舎の寝室に隠して飼い続けた。結局、栄養があるものが取れずに腸カタルをわずらい、昭和20年5月に死んでしまった。あと3カ月で終戦という時であった。(※5)
 終戦を迎えて、自然の要塞と言われるように、動物園自体は空襲を免れて被害はなかった。それと、処分された猛獣たちは骨格標本として使用するために埋められたが、掘り起こしたといった情報がない。今でも諏訪山のどこか静かに眠っている。

※1 「王子動物園開園50周年記念誌」神戸市王子動物園 2頁 参考
※2 「神戸大空襲」神戸空襲を記録する会編 140頁10行 引用
※3 「神戸大空襲」神戸空襲を記録する会編 140頁 参考
   毎日新聞(神戸版)昭和18年9月3日「警報下の動物園」 参考
※4 「科学画報 第33巻第3号」昭和19年3月 70頁 参照
※5 「王子動物園開園50周年記念誌」神戸市王子動物園 4頁 参考

資料

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