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14.熊本動物園 (現・熊本市動植物園)
昭和4年7月、名園・水前寺成趣園東側一角に開園した。39種381点の動物たちは、広島市にある羽田動物園(私立)の動物たちを買収したものである。
敷地および充実した動物たちを保有した動物園は、当時「西日本一」と言われていた。(※1)
上野動物園の処分が発表され、熊本でもその対応について、
「空襲と猛獣の処分 熊本動物園は まづ三段の方法を考究」(※2)
具体的な処分方法と猛獣の種類は、各動物園に問い合わせ中で、それを考慮しながら処分を決定した。
大まかに三段階で処分する。
第一段階 → 最も獰猛なもの、数が多くて手に入りやすいもの
第二段階 → 種類の少ないもの
第三段階 → 残った猛獣全部
と言った計画であった。
その日は、上野動物園処分から三カ月後の12月、
「市民の不安を一笑するため、猛獣は即刻処分せよ」
という軍の命令が市長を通じて、林六郎園長に伝えられた。来るべきものが来た、なんとか職員一同、一頭でも多くの動物たちを救おうと思った矢先であった。(※3)
行われる処分に関しては、当時の「異動簿」により、処分日時、動物、性別、処分方法が掲載されていた。(※4)
昭和18年12月26日、最初はオオカミから始まりました。(資料)
第一段を見る限りでは、オオカミは最も獰猛ではないが、数が多くて手に入りやすかったことが理由として挙げられる。
「銃殺も毒殺もむごい。他の安楽死の方法はないかと考えあぐんでいたとき、鹿児島の鴨池動物園が電気ショック死に成功したという情報がはいった。林(林六郎熊本動物園園長)はすぐ鹿児島へ出張して、この方法を聞いてきた。さっそく市の電気局=現交通局=の技師に相談して電線を仕込んだ竹の先に肉片をまきつけ、揚水ポンプ用の三相交流から二百ボルトの電流を引いた。」(※5)
オオカミ以外に薬殺で処分された動物はいない。それは、オオカミに毒入りのエサを与えて処分したが、上野動物園と天王寺動物園と同じように、苦しみ抜いて死んでいったと思われる。次の処分まで5日間も空いていたのは、苦しまないで殺す方法を探した期間で、各動物園に問い合わせて、鹿児島まで出向いたと考えられる。(資料)
第一段は、翌年1月10日まで、オオカミの他、クマ、ヒグマが犠牲になりました。
一つの疑問が出てきた。「即刻処分せよ」との命令である。三段階方式で処分をすることにより、他の猛獣がこの時点で処分されなかったのである。軍の命令は絶対であり、一部の猛獣だけを処分しただけでは、後々面倒なことになる。推測にはなるが、林園長は昭和20年初旬に召集される。上野・天王寺の園長も陸軍獣医師としてそれなりの階級であったことを考慮すると、林園長も同等と思われる。それ故に、軍と何らかの交渉がしやすかったのではないかと考えられる。
「空襲時の備へに 近く猛獣くんを処理 熊本市の水前寺動物園で」(※6)
空襲の恐れと、飼料の肉類は不生産的な猛獣に与える時局ではないとの処分の理由が書かれている。第一段で処分された猛獣もこの時点で発表となった。
この時の処分は3月13日から29日まで、トラ、ライオン、クロヒョウ、ヒグマを処分する。これらの毛皮を5月30日に市が告知し、6月5日午前に入札を行いました。
残った猛獣たちは、ゾウ以外、6月26日にトラ、ヒョウ、ヒグマが処分されました。
最後に残ったゾウは、昭和20年4月27日に食肉として電殺されました。
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※1 「熊本動物園60周年記念 動物園ものがたり」(熊本市動植物園) 8-10頁 参考
※2 熊本日日新聞・昭和18年9月7日夕刊 見出
※3 「熊本動物園60周年記念 動物園ものがたり」(熊本市動植物園) 21頁 参考
※4 「熊本歴史科学研究会機関誌 第30号 昭和63年(1988)」(熊本歴史科学研究会)5頁 参考
※5 柳本見一著「激動二十年 熊本県の戦後史」毎日新聞西部本社、1965年 195頁22行-196頁5行目 引用
※6 熊本日日新聞・昭和19年3月8日朝刊 見出
資料
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