読感①:『論理学 考える技術の初歩』
感想の前に
背景
『論理学 考える技術の初歩』という本を読んだ。9月28日の日記で述べた通り、この本は秋のkindleセールで500を切る安値で売られていた。その安さとタイトルの響きに惹かれて買い、読んでみた。
自分はあんまりこの本について買う前のリサーチをしなかったので、てっきり論理的思考のハウツー本的なものかなと思って買った。実際それはある程度正しいのだけれど、この本はフランスのエティエンヌ・ボノ・ド・コンディヤックという哲学者が、ポーランド政府の要請を受けて著した論理学の教科書、という背景の本であって、現代を生きる我々の論理的思考を指導する目的で作られたものではなかった。
本書の立ち位置
コンディヤックはいわゆる「経験論」という立場の哲学者になるらしい。経験論はざっくり言えば「知識や認識というものは、経験によって獲得される」みたいなことだ。代表的な人にはロックとかがいるけど、コンディヤックはまさにロックから多大な影響を受け、彼らの立場をフランスに紹介し発展させた人、ということになる。
僕は経験論というジャンルについて正直あんまりよくわかっていなかった。解像度が上がりはしたが、正直今でもわかっていると自信を持っていうことはできない。ロックについては簡単な西洋哲学の解説書を読んでいるときに彼について触れた章を読んだ記憶があるけど、それは政治哲学の話だったので経験論者としての彼のこともよく知らない。
感想
上述のような寡聞のもとこの本を読んだので、まず思ったこととしては「経験論ってのがあるんだね、面白いね」ということ。逆にそれ以外に強く思ったことはあまりない。まあでも、それでいいんだと思う。この本は斬新な理論で以て既存の思想に斬りかかるものでもないし、二部からなるこの本を要約した訳者解説を借りるなら、この本は「人間が持つすべての知識は感覚に由来するという経験論哲学の思想、人間は知識を得るときには対象を自然に分析するということ」を述べる第一部と、「人間が思考するためには言語が不可欠であること、それゆえ正しく思考するためには言語をよく作ることが必要であること」を述べる第二部の二つであって、「考える技術の初歩」を著した「教科書」なのだから。
おもしろかったところ
経験論の面白い点と言えば、これを近代科学とそれ以前との過渡期の思想として見ることができる、という点だと思う。「経験」という言葉には個人的な感が出てしまっているが、訳者によればどちらかと言えば「実験」という言葉の方が正しいらしい。つまりこれは、実証主義的な学問の曙として経験論を見ることができる、ということになる。
さらにこれはコンディヤックの主張の面白さだけど、彼の「言語を良く作ることが必要である」という主張における「良い言語」は代数学をモデルケースとし、方程式を解くような形で推論できる言語を「よくできた言語」と呼んでいる。このコンディヤックの主張をラヴォアジエが化学界で実行した結果成立したのが化学反応式の原型と「炭酸カリウム」のような物質名を元素名からとる命名法らしい。コンディヤックは、近代化学の成立にも一役買っているわけだ。
神について
コンディヤックの開明的なところばかり触れてきたから少し批判のようなことも書いてみる。コンディヤックは「知識は観察可能なものにおいてのみ得られる」的なことをずっと言っている。
こんなこと。ただその一方で、神の存在についてこうも言っている。
「感覚印象」とは五感を通じて我々が作り上げるイメージのこと。例えば、トマトを見て赤いねと思う。でもそれは、不変の客観的事実として赤があるんじゃなくて、視覚が赤だと言っているから赤なんだ、的な話。感官とは五感と同じようなものと言ってよい。つまりコンディヤックは、「神は感覚では見えないけど存在しているよ」と「感覚を越えて物を発見する事はできませんよ」を両立している。では何が神を証明するのかと言えば、曰く「自らの特徴を感覚的な物事に刻み込んだ」ことによるようだけど、ではそれを如何に観察するのか、ということは未解決の問題として残る。
この矛盾は当時にあって仕方がない部分もある。18世紀はそのノリで展開される時代の中では後ろの方にいるものの、やっぱり神の存在は前提だった。こういう面白い理論を立ててある程度ちゃんと矛盾なく書ききれるような人でも、神の存在の前では矛盾せざるを得ない。進歩主義史観に陥りたくはないけど、この矛盾が時代によって強いられなくなったのは良いことだなと強く思う。今の時代に神を主張することも可能だけどね。そういう自由があるという意味においてより僕は今を良い時代だと思う。
その他の妄想的読解
この現象は現代の幼児発達研究においても「事物カテゴリーバイアス」として指摘されているらしいけど(ゆる言語学ラジオ#111で見た話です)、この時代には既に(バイアスとして理解されている感じは全くしないけど)そういう卓立した現象として立てられていたんだな~、ということを思った。
経験論についてよくわかっていないので整合性取れているのかよくわからないけど、現代の幼児発達研究においては先天的なバイアスとしてこの現象は見られているので、経験論的には認めたくない「ア・プリオリな知識」ということになるんだろうか。最初に現象を指摘した人の洞察が正しいとは限らないわけだ。
これからの道
結びに代えて、本の中で出てきた本や紹介された本を並べて、さらなる学習への道筋を記しておきたい。
著作の翻訳
・加藤周一、三宅徳嘉訳『感覚論』全二巻、創元社、1948年
・古茂田宏訳『人間認識起源論』全二巻、岩波文庫、1994年
・古茂田宏訳『動物論─デカルトとビュフォン氏の見解に関する批判的考察を踏まえた、動物の基本的諸能力を明らかにする試み』法政大学出版局、2011年
解説書
・山口裕之『コンディヤックの思想─哲学と科学のはざまで』勁草書房、2002年
・山口裕之「コンディヤック」松永澄夫編集『哲学の歴史』第六巻、中央公論新社、2007年、541~70項。
・ジャック・デリダ著、飯野和夫訳『たわいなさの考古学─コンディヤックを読む』人文書院、2006年。
なるべくAmazonの奴を載せたけど、それにしても『コンディヤックの思想』などはプレミアがついていてちょっと手出しは難しそう。日本の古本屋でも探してみたけど、1万は出さないと現状買えないようにみえる。図書館に蔵書があることを期待だ。