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【古備前】1573年に織田信長に滅ぼされた安土・桃山時代(一乗谷朝倉氏遺跡)の地層から出土した「備前焼」から、桃山茶陶の真実を垣間見る【桃山時代】

こんにちは、古陶磁鑑定美術館です。

古陶磁鑑定美術館叢書【古備前焼きの年代鑑定】

織田信長や豊臣秀吉が活躍した安土・桃山時代(1572-1600)は、わび茶が大流行した時代です。

当時の茶の湯(茶会)で使われた道具は、一国の価値にも相当する程高価なものでした。武将や大名によっては、戦の褒美に、領土よりも茶道具を所望した逸話が残されているほどです。

そんな当時の茶道具の筆頭格と言えば、茶碗等の「陶磁器」です。

現在でも、安土・桃山時代の茶の湯で使われた陶磁器は「桃山茶陶」と呼ばれ、何千万円から何億円単位の価格で取引される器が存在します。

しかし、それだけ高価な器で、しかも、作られた当時から何百年も経過してしまっていますから、中には贋作や時代の異なる器が紛れてしまっているのも現状です。

さらに、近年になって、各地から出土した埋没品の発掘調査や、考古学の研究が進展したことに伴い、主に江戸時代初期の焼き物を「桃山茶陶」として間違えてしまっていた事実が判明し、歴史が大幅に修正される事態に陥っています。

つまり、本来は、桃山時代の焼き物ではない器を、「桃山茶陶」として誤認してしまっているケースが続出しているのです。

裏を返せば、それだけ「織田信長や豊臣秀吉や千利休が実在した安土・桃山時代の本物の桃山茶陶は貴重で憧れの存在」なのです。

そこで今回のコラムでは、インターネット環境があれば、誰でも「桃山茶陶」を正しく見分けられるテクニックやその実例を紹介します。

安土・桃山時代に戻って事実を確認する訳にはいきませんが、令和時代の現代社会には、情報通信技術や解析技術があります。

それらの技術を駆使して、戦国時代の真実に迫ってみましょう。


【1573年に織田信長に滅ぼされた一乗谷朝倉氏遺跡から出土した備前焼】

さて、今回見ていく歴史の証拠は、現在の福井県にある「一乗谷朝倉氏遺跡」から出土した「備前焼の花入」と「備前焼の水甕」です。

一乗谷朝倉氏遺跡跡

【引用:福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館さんのHPにて紹介されています】

※リンククリックでホームページに移動 【花生】・【水甕

一乗谷遺跡は、1573年に織田信長に攻められて滅びた朝倉氏の本拠地だった遺跡です。すなわち、この地から出土する埋蔵品は、概ね1573年頃までの遺物と判断できます。

その一乗谷遺跡から出土したのが、引用の「備前焼花入水甕」なのです。

この備前焼の花入は、その筒状の姿形や形態から、壁掛けのような使い方がされたものと推測できます。飾り気のない土味の焼け肌に胡麻が降りかかったシンプルな造形は、備前焼花入の初期型の様相を呈しています。

伝世品では、このような姿形の花入は、ほとんど確認されていません。安土桃山時代本物の花入は、幻と言っていいほど貴重な存在と言えるでしょう。

水甕についても、伝世品によくある江戸期以降の耳の付いたものではなく、胴紐のみの素朴な形態をしています。

どちらも鮮やかな色合いの細かな胡麻が降りかかり、素朴な土味に絶妙な景色を演出しています。それらは、江戸時代以降の人為的なものではなく、窯の中の燃焼によって自然に形成された景色です。

このような自然な土味こそ、戦国時代の本物の「桃山茶陶」なのです。

桃山時代の花入や水甕(葉茶壷)と称される備前焼の伝世品は、現代でも比較的数多く残っていますが、それらの作風や土味と、今回の出土品とを比べてみると、様式や見た目に大きな違いがあることに気づくことでしょう。

その理由は、「作られた時代が異なる」からなのです。

そのような事実を踏まえて、当館が保管する古備前焼の伝世品を見比べてみますと、一般的に「室町時代(末期)」と鑑定される様式の種壺や古壺が、この時代の焼け肌に近いと分かります。

安土桃山時代の備前焼の焼け肌と土質1

本物は、野武士のように荒々しく、ズシリと重く、いかにも戦国武将の焼き物といったオーラに包まれています。歪みや箆目などの装飾もありません。

安土桃山時代の備前焼の焼け肌と土質2

つまり、本当の安土・桃山時代の備前焼や茶道具の姿は、かなり歪められた形で、誤解されたまま現代に言い伝えられているのです。

そのため、実際に古美術品や骨董品を買ったり、扱ったりする際には、信頼できる一次資料や出土品などの証拠を調べた上で、真贋や時代を判断するようにしましょう。

古備前焼の年代鑑定は、古陶磁鑑定美術館にお任せください

古陶磁鑑定美術館では、ホームページや書籍「古備前焼きの年代鑑定」にて、真贋判定の参考になるデータや伝世品を紹介しています。ぜひ参考にご覧ください。


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