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ユング/MBTI考察: 「影」について (1) 「否定」と「影」

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 こちらを要約すると、MBTI 4心理機能モデルでは、8つあるものを4つで解釈することには無理がある、というお話でした。ですので、8心理機能モデルへと拡張したい、と。そのためには、自我の4つに加え、影の4つの心理機能を加えねばなりません。
 では8つの心理機能の序列の話を始めましょう…と言いたい所なのですが、本記事でもそこまで到達できませんでしたスマン。やはり「影」の序列を議論しようとしているのに、「影」って何?ということをすっ飛ばす訳にはいきません。ディープな話になりますが、どうぞお付き合いくだせぇ影だけに (や、シャロウなシャドウもあるんですがね、まぁそこはニュアンスと言うか何か汲み取って下さいよね)!

 私の目的は、自身の「影」と向き合う強さを、多くの日本人が取り戻すことにあります…いや、語弊ごへいがありますね。より正確には、「日本のことを強く想う人々」です。国籍は問わないナンセンス。私はまずその様な気構えを持つ指導者達へ「個性化」の価値を伝えたい。そしてそれを次の子供達へ伝えてもらいたい。そうやって衆口に伝播し、日本を強くしたいのです。
 そのためには、実用に耐え得る、多様性を包含し得る、柔軟で強靭かつ魅力的キャッチ―な解釈技術が必要です。MBTIって面白いですよね。マイヤーズの最大の功績は何か?というと、ユングの考えを魅力的キャッチ―にして普及させたことだと思います。恐らくマイヤーズの主機能はFi内向感情でしょう。明確な目標を見定め、信念をもって実用化/普及活動を行った。当時の時代背景を考えると、女性が社会活動を精力的にこなすことは、大変難しかったでしょうが、彼女の平和への想いが突き動かしたのでしょうね。

 ユングがこの説を世に出した頃、時を同じくして、米国のとある母と娘が同じような疑問をもち、研究を進めていた。母の名はキャサリン・ブリッグス (Katharine Briggs) といい、娘はイザベル・マイヤーズ (Isabel Briggs Myers)という。この親子が、いろいろな職種について失敗しやすい人と成功しやすい人の違いについて研究をしていた矢先に、前述のユングの著書と出会い、その理論が自分たちの研究内容すべてを統合し展開しうるものだと気づいた。それ以降、彼女たちは生涯にわたって、ユングが提唱したこのタイプ理論を一般の―――「ふつうの」―――人々に役立つものとするための研究を開始した。イザベルはラジオから流れる第二次世界大戦の実況に耳を傾けながら、親友のフロリダ大学の教授であってメアリー・マッコーリ博士にこう話した。
 「もし、この MBTIが多くの人に役立てられ、戦時の国民協力の中でもその人が生かされる仕事を自ら見い出せるなら、この戦争は即時に終えられるにちがいない。」と。………(中略)………人々がこの考え方にふれることで、より納得し満足の得られる学習経験や職業経験をもつだけでなく、建設的な人間関係を築くきっかけを得ることができるだろうという希望を胸に、それから20年以上かけて、質問紙一式を開発することに成功した。
(まえがき 「ふつう」「標準」ということに関しての考察 p. xx-xxi)

MBTIへのいざない (ロジャー・R.ペアマンら)→amazon

 ユング心理学を広めた彼女たちの功績は、揺るぎない金字塔です。しかし今、これだけ情報が普及した現在、もう一段階、新しい解釈を付け加えたい。そして有効であれば、私はそれを日本の教育現場に、投入したい。それは政治などの外部システムを介してではなく、現場の指導者や各家庭で内発的に伝播しなければならない。それを為すことができるのは、やはりマイヤーズの様な強い「信念」を持った方々ではないか。そのために、あなたの心は繊細にできているのではないのか。己の心と向き合える者は、最も「個性化」の資質を持ち、即ち、最も強くなるポテンシャルを秘めている。その「個性化」過程に必要な「影」を用いて、私はMBTIの解釈技術を拡張したい。

「影」とは

 まずユング心理学の「影」とは何でしょうか。林道義みちよし氏の「ユング心理学入門Ⅱ」には、こうあります。

要するに子どもの自我が形成されてくるときに出てくる悪者のイメージ、あるいはもう少し一般的に言うと「否定されるもの」をユングは「影」と名づけた。これは天才的なネーミングだと言える。ユングは名前をつけるのが非常にうまい。これが普通の学者だったら「人間の無意識の中にある否定されるもの」とでも定義するところだろう。そういう定義を言われてもあまりピンとこないが、「影」と言われると感じがよく分かる
(第一話 自我と影-否定し合う心と心/「否定されるもの」を「影」と名づける)

心のしくみを探る―ユング心理学入門Ⅱ (林道義)→amazon
(太字はOKZKの強調)

 「人間の無意識の中にある否定されるもの」が「影」であると。………なるほど、分からんと。「影」と言われると感じがよく分かる………ようで、分かりませんと、すみませんと、いうね。1回読んだだけじゃ理解できません…ユング心理学…お、奥が深いぜ!ゴクリ


 そこで「う~ん」と悩んだ私は、Ti内向思考しながら、Ne外向直観だけじゃなくSi内向感覚で記憶を掘り起こす。しかしそれでも分からん、過去の記述も気になり出したので、もう一回よく読んでみようかな、とSe外向感覚を使い出す。「ほらやっぱりINTP論理学者Se外向感覚使うやないか!」と心の中で突っ込むと。やっぱ4心理機能モデルは変えないかんな!とTe外向思考。それがワシの役目じゃ(Fi内向感情)!……(熟読中)……あ、なるほどそういうことか!で以下私のNi内向直観結果です。(喜んでくれるかな~…Fe💔外向感情)


 とにかく大前提として、「影」は「否定」されたものなんですね、と。「影」は「否定」。「影」は「否定」メモメモ逆に言えば「否定」されていない無意識もある、と。無意識の領域には、「否定」されたものと、「否定」されていないものがあるんですね、と。まずは基本が大事ですよね?ということで、ここから理解をはじめてみましょうよ。

無意識の中の「否定」されていないもの?

 「否定」されていない無意識的な行動は…無限にありますよね。「ふと軽いため息をつく / かゆくもないのに頭をかく / 勝手に空想がはじまる / 考える時に宙を見る」これらは何か無意識の領域に原因となる「心のぬし (主体)」がいて、なぜその行動を取ったのかは、自分もよく分からない。ただそのぬしは、それぞれに複数いて、それぞれが自律的に動いている、と。つまり八百万やおよろず主々ぬしぬしが、意識 / 無意識に住みついていて、勝手に暴れまわっとる、と。鎮まりたまえ。荒ぶるぬしよ。

心は主体である、そしてその主体がじつはいくつもある、心はいくつにも分かれていてそれぞれの部分が主体である、ということをお話した。
(第三話 自我とコンプレックス/冒頭部)

自我もコンプレックスも心の中の主体であり、どちらも自律性をもった主体なのである。ここでいう自律性という言葉は非常に大切で、ユング心理学を理解するためのキーワードである。
(第三話 自我とコンプレックス/自律性をもった主体)

フロイトが挙げている面白い例があり、それはオーストラリアの国会で起こった出来事である。開会の前にゴタゴタしていて、なかなか議会が開会できないので、議長はイライラして待っている。すべてのゴタゴタが落ち着き、やっと開会できたときに、その議長は「これより議会を閉会します」と言ってしまったという。
これはコンプレックスほど大げさなものではないが、心の中にある別の言いたいことが、自我が思うこととは別のことを言ってしまった、という例である。これらの例は、自我とは違う主体が心の中にあることをよく示している。日常生活でも、言い間違いや、やり間違い、すれ違いなどがあるのは、コンプレックスが主体として自分勝手な行動をとる場合が多い。
(第三話 自我とコンプレックス/コンプレックスとは何か)

無意識への扉をひらく―ユング心理学入門Ⅰ (林道義)→amazon
(太字はOKZKの強調)

 「否定」されていないぬしというのは、普段の何気ない、無邪気な子供の様なものだと思っていいでしょう。別に特段悪気もないし、コンプレックスもない。だから、周りの人から指摘されても、「あぁ、確かに。やっちゃってたなぁ(ウスゥ)」くらいのものです。

無意識の中の「否定」されたもの?

 それでは「影」の続きを見てみましょう。

影とは要するに自分の中で否定している性質が自立的イメージになったものである。しかも人間だけではなく、幽霊、魔女、竜、あるいは怪物などのように独立したイメージをもち、形になっているもの、しかも否定的な性質をもったものが影である。ところが、否定しているものが悪いものとは限らない。自我がよいものとか美しいもので形成されていると、否定されているものは悪になる。しかし、自我が悪いもので形成されている人、あるいは自我を悪く作っている人もいる。たとえばやくざとか、自分の子どもに「悪魔」という名をつけたがる人などがそれに当たるが、こういうイメージで自我を作っている人の場合は、その人の無意識には美しいものがいて、美しいイメージが出たりするものである。無意識のうちに美しいものに憧れていることになる。
たとえば、きれいな姐御あねごが親分として登場する映画は、まさにその典型といえるだろう。そういった場合の影は「白い影」という。影のイメージは黒であるが、よいイメージが影になる場合もあるわけだから、それを「白い影」といい、黒いイメージの影と区別している。美しいものや正しいものを否定している人は、美しいものが影になるのである。
(第一話 自我と影-否定し合う心と心/「否定されるもの」を「影」と名づける)

心のしくみを探る―ユング心理学入門Ⅱ (林道義)→amazon
(太字はOKZKの強調)

 なるほど、意識の領域から「否定」され、追放された無意識のぬしを「影」と呼ぶ訳ですね…おっことぬしさま、タタリ神なんかにならないで!………可哀想なおっことぬしさま。「黒い影」に呑まれちゃった。あぁ。………でも、悪い意識を「否定」して生まれた無意識のぬしは「白い影」で美しい、と。ふむ。


 はりつめた~弓の~ふるえる弦よ~月の光に~ざわ~め~く~おまえの心~…私はもののけ姫が大好きでな。ついつい連想せずにはいられませんな。あれは人と獣の心の「影」を見事に描いた芸術作品です。モロは人を憎みながらサンを育てた。サンも人を憎みながらアシタカに恋をした。アシタカは人々を愛しながらその愚かさを呪った…まさにその黒白の矛盾が、とてもとても美しい。
 シシ神さまは闇堕ちした後、首が戻って我に返り、己が破壊した森を見て、真っ黒だった心を真っ白に塗り潰したのですね。まさに最後の場面は、陰極まれば陽となる、陰陽転化を見事に表現しています。それまで人と獣の陰と陽の均衡を保たせていたシシ神さまが死んでしまったことで、人と獣の運命は、自分達自身に託されることになってしまったのです。しかし、アシタカの腕の痣は消えていました。つまり、アシタカは人の愚かさを呪う己の「影」と対峙たいじする強さを得たのです。恐らく、シシ神さまは一つ一つの生命の心の中へと潜り込み、陰と陽の均衡の舵取りを、各々に託したのだと思います。
 この描写はまさに………現在の混沌として秩序を失った日本社会はまさに、人々の真っ黒な心の渦に呑み込まれようとしているかのようです。誰もが何かを猛烈に呪い、それと同時に鮮烈な光を渇望している。今まさに陰は極まろうとしている。サンとアシタカは、あの時シシ神さまへ首を返す選択をした。そうしなければ、シシ神さまは陽の光に焼かれ、ただただ死んでいた。二人の勇気が、シシ神さまの心を転化させたのです。私は、あの場面を、今のこの世界と重ねずにはいられない。私達のこの世界も、このまま呑み込まれて死んでしまうのか、窮まった陰の極致で転化できるのか、私達の舵取り一つ。この文章に興味を示したあなたは、きっと一筋の陽の光になると、私は信じたい。


…閑話休題。先ほどの話に戻りましょう。
 「黒い影」の例として、幽霊、魔女、竜、あるいは怪物など、と書かれています。これらは、昔から人が恐れ、畏怖し、「否定」したい (直視したくない)ものです。つい200年前までは、流行り病で人がバタバタ倒れたり、いきなり発狂したり、天変地異で大災害が起きたり、異なる容姿の人を迫害したり…そういったことが当たり前でした。現代ではその原因が突き止められ、それらの「影」に脅かされることは少なくなってきているでしょう。しかし人は、「理解できないもの」を「否定」する。それは、「平和 / 平穏 / 幸せ」という「白さ」を求めて、それを脅かす存在を「否定」して「否定」して「否定」する…そうするほどに「影」は育つ。ユングは、そういったエネルギーが注がれる無意識領域の「器」を「元型」と呼び、人類は進化の過程で、万人共通の「元型」を持っていると言いました (集合的無意識)。その「器」にエネルギーが注がれ過ぎると、極めて具体的なイメージを持つ巨大な「影」が誕生します。例えば、トイレには恥、汚い、臭い、不潔、病など、負のイメージが湧きやすい。「毎日綺麗にしなきゃ!汚れちゃいけない!」とピカピカの「白さ」を求めることは、裏を返せば「汚れ / 穢れ」という負のイメージを「否定」し、抑圧する。そういった負の感情が無意識の「器」に溜まりやすい場では…日本ではトイレの花子さん、アメリカではブラッディ・メアリー(リンクは怖い要素なし)など、具体的なイメージが一人歩きし、時代や場所を超え、広く伝播します。漫画/呪術廻戦で言う所の「特級仮想怨霊」ですね。

 「白い影」の例として、姐御とあります。ヤクザの世界に生きる人だから「悪い人」だ、でもそのお姿は美しい…はっ!ダメだダメだ!好きになっちゃ!極道だぞ!ろくなもんじゃねぇ…あぁいい匂いする~………はっ!馬鹿野郎!ですね。自我は「悪」だ「悪」だと認知するほど、無意識領域の「白い影」が際立つ。ちょっと優しくされたり弱みを見せられたらイチコロですわ。ヤンキーが缶コーヒー買ってくれたら好きになるヤツってこれですよね。「あ、なんか!この人!いいとこあるじゃん!」と。ヤンキーに対して、多くの人は、「悪い」と認知します。自我でその人を「悪い」と認知すればするほど、無意識領域では「本当に悪い奴か?良い所もあるんじゃないか?」という「期待」にも近い「白い影」が育つのです。そんな人がちょっと「期待」に応えてくれたら、「好き!」ってなっちゃう訳ですね。これもこれで、「影」を直視することができない弱さに付け込まれているだけだ!騙されるな!と、私はひがんでますがね。

 さて、上記の例は「確かにそういう所あるかもな」って誰しも経験があると思います…ということは、誰しもが「黒い影」も「白い影」も、両方持ち合わせているということですね。全てが黒!全てが白!は、あり得ない。大切なのは、どちらの「影」とも向き合う強さを持つことです。
 すでにこの記事長いですね。そろそろ締めねば。ただここで一つ、問題を投げかけたいと思います。先ほどの「魔女 / 怪物」には「黒い影」、「姉御 / ヤンキー」には「白い影」が育つと言いました。この違いって何でしょうか?なぜ魔女と姉御は違うのか?なぜ怪物とヤンキーは違うのか?どちらも「否定」して「影」ができるのでは?黒か白か、どうやって決まるのか?………という前振り(悪の所ヒヒッ)をやって、一旦締めに入りますよ。

この問題に早速正解してくれた強者がいます。よろしければ、コメント欄も覗いて見て下さい!いや~思わず嬉しくなりましたね。ありがてぇ。 
(2023.04.08追記)

無意識は動く!

 さて、しばらくMBTIも心理機能の話も忘れて、ただただディープな話をお届けしました影だけに。ただ、これらの話は「影」の心理機能って何だろう?という考察に、とても大事なのです。改めて、初心に帰りましょう。
 冒頭でも載せた前記事「Ne外向直観Ni内向直観の違い」の中で、私はINTP論理学者として当然の様にNe外向直観 / Ni内向直観の両方を使っているはずだ、と書きました。INTP論理学者にとって、Ni内向直観は➋影の補助機能に当たりますが、INTP論理学者もバリバリNi内向直観を使っているはずです (無意識に)。なぜなら、先ほどの「黒い影 / 白い影」の様に、誰しもが日常から、無意識に「影」の存在を身近に感じているはずだからです。そうであれば、無意識に「影」の心理機能も使っているはずです (詳しくはまた…)。
 私達は無意識の内に、「無意識の領域は遠く離れていて、ほとんど意識とは関係がない」、という先入観を持っていないでしょうか。実はそうではなく、無意識の領域には、何か具体的なイメージ (主々ぬしぬし)が昔っから存在していて、日々、「無意識の内に無意識のイメージと慣れ親しんでいる」という方が、正しい記述ではないでしょうか。しかし、それが意識に上がってこないのは、「否定」によって「影」に蓋をしようとするからだ、ということです。そして場合によっては「白い影」の様に、まぶしくて直視できないけれども、憧れ、切望する「意識させられようとするので、誘惑をねじ伏せなければならない程の無意識のぬし」もいるということでしょう。この辺りは、更にもっとディープな考察が必要ですねフフ…影だけに。

まとめ

・心は主体 (ぬし)であり自律的に動く勝手に暴れる
・意識にも無意識にも八百万の主々ぬしぬしが住まう
・意識領域から「否定」され、無意識領域に追放された可哀想なぬしがおっことぬしさま、あまちがえた「影」と呼ぶ
「影」は「否定」によって育つ
・無意識領域でぬしは躍動する!
 (勘違いや言い間違いなどを引き起こす)
・つまり無意識領域で「影」も暴れている!
・人は「否定」した「影」から目を背けたい
・しかし「恐怖 / 誘惑」の「影」が付き纏う
・「影」と向き合うのが「個性化真の強さ

さいごに
 昨今では「白 / 黒」という表現が公の場で使いづらくなっていると感じます。これは英語の「White / Black」も同じですが、「白黒つける」など、それぞれ「善 / 悪」という文化的先入観が含まれています。しかし本記事をご理解頂ければ私の意図は伝わると思いますが、黒は白を生み、白は黒を生み、互いに混ざり、極まれば転化する。黒は「逞しさ / 強さ / 源泉 / 独立」という正の面を持ち、白は「儚さ / 弱さ / 誘惑 / 依存」という負の面を持つ。従って、白は正でもあり負でもあり、黒は負でもあり正でもある。「黒い影」には立ち向かわないといけないし、「白い影」には溺れないようにしないといけない。どちらが善か悪か、などと矮小化される話ではありません。そのことは予め、十分にご理解頂きたいと思います。


それではまた!



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