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「村並み保存」ってなんだろう?

「村並み保存」という言葉を聞いたことがありますか?
「村並み保存」「町並み保存」の兄弟のような言葉です。愛媛県の内子町で1990年ごろに生まれた言葉です。この二つの取り組みは、経済成長や都市化が進む田舎を考える上で、非常に大切な考え方です。

なんとなく良い田舎、内子町

山奥の集落にも農山村の営みが残る(内子町立石)

愛媛県にある内子町は、なんとなくいい雰囲気の流れる田舎町です。山々に集落が残り、果樹園が多く、観光農園をしているところもあります。美しい町並みや古民家が残り、木造の芝居小屋「内子座」もシンボルとなっています。

個人事業や中小企業が多く、若者や移住者も個性的です。飲食店もチェーン店がほぼ無く、地元の企業や個人が個性を生かして活躍しやすい田舎です。

他の町でもこのような状況があるかもしれません。しかし、内子町は意図的に「なんとなく、いい田舎」を半世紀かけてつくってきました。その鍵が「町並み保存」「村並み保存」です。

1975年から古い町並みを生かした歴史的で綺麗な通りにしていく運動が始まりました。これが「町並み保存運動」です。町並み保存運動は、市街地の歴史ある通りを美しく保ったり、今より綺麗にしていく運動のことです。

市街地に対し、農村部の美しい風景を守っていく活動が「村並み保存運動」です。

人は減り、都会っぽい田舎を求めてきた

田舎らしい風景は刻一刻と減っている(写真・内子町 御祓地区)

町並み保存運動が始まったきっかけは「人口減少が著しい内子町をどうにか守っていくため」でした。1970年代は高度経済成長期が始まり、今よりも早いスピードで大量の人口が都市部に移動していました。なんとか歯止めを効かせようと全国の地方では工場誘致やお祭りで盛り上げる動きがありました。

また田舎らしさは、古臭くてしみったれていると感じる風潮も高まりました。田舎っぽさを消すように生垣をコンクリートブロックに替えたり、商店街にアーケードをかけたり、都会な雰囲気にしていきました。各地の田舎が都会を追い求め、その土地らしさはどんどんなくなっていきました。

内子町でも状況はほとんど同じでした。イベントを開いたり、工場を誘致しても人はいなくなり、町の個性がなくなり続ける状況でした。

町を守るための「歴史」と「観光」

内子の町並み保存は産業をつくるための取り組み(八日市護国重伝建地区)

内子を守るために必要とされたのが「観光」という視点でした。町の個性を一番表しているのは町の「歴史」です。北は小樽から南は竹富島まで全国各地の観光地のほとんどが、その町の歴史を大切にした観光資源が目玉です。ディズニーランドや渋谷はごく稀なケースなのです。地元にある料理、お土産、工芸・民藝品、商店街、寺社仏閣、農村風景。その土地に根付く歴史を大切にした地域が観光地として人気なのです。

1970年ごろ、長野県にある宿場町「妻籠」が町並み保存で人気が高まっていました。毎日、東京からマイクロバスで何時間もかけて沢山の人が訪れていました。町並み保存が仕事を生み、人が暮らしていける町になっていました。そしてシンボルとして町並みがあることで、「地域の個性」「食っていける仕事がある」ことの両立ができていました。

内子を救うには妻籠のような町並み保存をするしかない。内子町役場で1975年に「観光振興係」が立ち上がります。そして、住民を巻き込んだ古い町並みをつくる運動は1982年に国の重要伝統的建造物群保存地区に認定されるまで進みます。

以降も、現在まで続く内子の町並み保存運動は周辺地域、研究者から注目を集め、内子町の知名度が全国に広まっていきました。古い町並みに関心のある方が集まる環境ができてきました。町並み保存運動は観光はもとより、移住者誘致にもつながる結果となりました。

古い市街地を保全していく中で、一つの気づきが生まれます。「市街地」の内子らしさだけを残しても、周りの「集落」の暮らしが良くならなければ、ジリ貧なのではないか。このような理由から山村集落の活性化に目を向けたとき、「村並み保存運動」という言葉が生まれます。

あらためて、村並み保存とは?

石畳地区の水車が回る公園「石畳清流園」

ここまで町並み保存の話をしてきましたが、内子の町並み保存はそれだけにとどまりませんでした。市街地だけでなく周辺にある山々にも人を惹きつける魅力をつくることが大切だと考えたのです。歴史性や美観性を取り入れた、山あいの集落の村づくりとして「村並み保存運動」という言葉が生まれました。

山にある集落に目を向けると、豊かな自然が広がっています。しかし、この自然は人の手で作られた自然です。石垣だけをみても、家や段畑、棚田の石垣は、この土地に暮らしていた人が積み上げたもの。川や水路も同じです。農村風景は人に手入れされてこそ、美しいのです。

先人たちが作り上げた農村の美しい風景を磨く取り組み、それが「村並み保存運動」です。

村並み保存運動の舞台「内子町石畳地区」

住民が自腹と自力で作った「水車小屋」

内子町の市街地で始まった町並み保存運動の展開として農村で村並み保存運動が起こります。舞台は内子を流れる大きな川の一つ「麓川(ふもとがわ)」の源流域、「石畳(いしだたみ)地区」です。

石畳地区で「村並み保存運動」が始まったのは1987年。住民グループ「石畳を思う会」が発足したことがきっかけでした。10名の住民と2名の行政マンから始まったグループは、現在までメンバーを加え、村並み保存運動の中心グループです。

初期の大きな出来事といえば1990年の「水車小屋」を復活させるプロジェクトです。60万円の工事費がかかり、費用を賄うためにメンバー12名が5万円ずつ出し合いました。当時の初任給を考えると5万円は現在の倍以上の価値になります。自腹で山奥に水車小屋を建てている変わった人たちがいるということで注目を集め、テレビの全国放送や新聞各紙に掲載されました。

一つの水車小屋づくりが「なんだかおもしろそうだな」をつくり、町の知名度を押し上げたのです。

山奥のお宿「石畳の宿」が地域の顔に

28年前に建てられた山奥の古民家宿「石畳の宿」

水車小屋のある公園は人気を集め、2年後の1992年には「水車まつり」を開くようになりました。年間1200-1500名程度の人を集め、270名の集落が総出となってもてなす機会になりました。

人が来る集落になり、次はお客さまをもてなす、お宿の建設が始まります。1994年、当時グリーンツーリズムという言葉がない時代に、山奥に古民家を移築してお宿を作ろうという計画です。

行政が主導で6,000万円のプロジェクトです。補助金は使わず、内子町の財源での取り組みとなりました。設計は全国でも古民家改修で定評のある吉田桂二を招きました。石垣の積み上げや裏山の整備は地元住民に依頼し、地域にお金が落ちるようにしました。補助金の制約がない分、内子や石畳ならではの計画が実現しました。

そして宿のお食事は、地元ならではのお料理。お肉料理やパスタではなく、地元の山菜やお野菜を使った煮物が中心。ちらし寿司や川魚料理も提供。これが人気を呼び、宿は大繁盛。ピーク時には客室が4部屋の宿に年間2,000万円近くの売り上げが上がりました。

魅力のある田舎を「作っていく」

水車やお宿以外にもお蕎麦屋さんを開いたり、菖蒲園を作ったり、枝垂れ桜に遊歩道をつけたり。。。最近では共感した移住者が薪窯の本格的なパン屋さんを開いたり、炭焼き職人として開業されたりしています。そして石畳の栗のブランド化にも挑戦し、お土産も増えました。石畳は30年前に比べて、訪れたくなる場所や名産品が増えました。

石畳の取り組みは経済効果などのお金では測りにくいものかもしれません。なんなら水車小屋を自腹で5万円出したりする活動ですから、元が取れるからやっている話でもないわけです。

それでも水車を作り、宿を運営し、蕎麦屋を開いてきました。莫大なお金は産まないかもしれませんが、知名度とその土地の魅力は確実に上がっています。土地の魅力と知名度がお客さまを呼び、移住者を呼ぶことで、石畳らしい風景が少しでも残り、石畳にあった魅力を使って生業を作る人が生まれたのです。

これはお金だけを追い求めていてもできません。地域の魅力を見つめ、見つけた魅力を利用するのではなく、地域の魅力を自分たちの手で磨いていく意識と行動が必要なのです。

自分たちの村を国・行政・役場に頼るのではなく、自分たちで守り育てていく。「自治」の意識が個人ではなく、集団でしっかりと根付いたことが、魅力ある村をつくることに繋がりました。

村並みを型作る森づくり、川づくり

近自然工法に取り入れられた照葉の森づくり

村並み保存運動と同時並行するように内子町のスローガン「エコロジータウン内子」が生まれました。「エコロジー」=「環境」を軸に置いたまちづくりを内子町役場の方針で取り組み始めました。

その中で軸になった取り組みが2つ。人工林になる前の自然林をつくっていく活動「照葉の森づくり」と、護岸工事をしながら自然な川に近づける工事「近自然工法の川づくり」でした。

「照葉の森づくり」では横浜国立大学の故・宮脇昭教授のもと植林イベントを毎年のように開催しました。また、擁壁工事や公共施設の緑化にも取り組み、緑のあるまちづくりを進めました。

照葉の森とはいわゆる「どんぐり山」のことを指し、西日本に広がる、どんぐりの成るシイ・タブ・カシを中心とした植生の森のことです。人工林が広がる前の自然林に戻していく活動です。

小学生にどんぐりを拾ってもらい照葉の森づくりに使う

川づくりは信州大学の桜井善雄教授、西日本科学技術研究所の福留脩文さんをアドバイザーとして、愛媛県庁と協働しながら河川改修を行いました。石畳の住民も運営で協力し、ホタルの暮らす川づくりや川遊びをしながら学ぶ機会を作りました。


町並み保存もエコロジー

また、町並み保存運動もエコロジータウンの主軸の一つとなりました。日本のゴミのうち建設廃棄量は多くの割合を占めています。そのほとんどが新建材によるものであり、古民家の素材は木材、紙、土くらいのものです。ゴミになるのはガラスくらいで他は古材として再利用もできます。バラして薪として使ったり、燃やして畑に埋めたりと手軽に資源として利用できるものなのです。古民家を再利用することはエコロジーなのです。

村並み保存とエコロジータウン

石畳を思う会の囲炉裏を囲んでの語らい

内子町のまちづくりは「町並み保存運動」を皮切りに「村並み保存運動」と「エコロジータウン」に展開しました。これらの動きは唯一無二であり、国内でも先駆的で誇れるまちづくりを行っていました。しかし、これも2000年ごろまでの話で、現在は20年以上が経ち、動きが鈍くなっているのかもしれません。

気候変動、リモートワーク、田舎の都市化、グローバル化、withコロナ、21世紀型の観光、あらゆる変化が激しい世の中です。お金が稼げれば幸せ、とはいえない世の中でもあります。

地域らしさや暮らしやすさが保証されているとはいえず、私たちが大切にしたいもの、大切にしてきたものが、どんどん失われているのかもしれません。

きれいな空気、美味しい水、田畑の気持ちいい風景、豊かな森。私たちが暮らしの中で何気なく与えられている豊かさは誰が作ったのでしょうか?自分が頑張って仕事をしているから得られる部分もあります。しかしじっくり見つめてみると、個人の頑張り以上に、これまで土地で暮らしてきた、おいちゃんおばちゃんたちが積み上げてきた豊かさの方が遥かに大きいのです。私たちはおいちゃんおばちゃんがつくってきた豊かさを切り崩して使っているのです。この豊かさはいつまで続くのか、いつまで使い続けるのか。この答えは現代人しか出せません。

どこかのタイミングで豊かさを自分たちでつくる側の立場に立たないといけません。豊かな村、豊かな暮らしは誰もつくってくれません。このままでは子どもたちに残すこともできません。

「じゃぁどうやって豊かな暮らしを作るの?」

そんな時に村並み保存運動はとても参考になる取り組みなのです。石畳地区、内子町には田舎の村の豊かさを続けるための手がかりがたくさんあります。ぜひ、足を運んでみてください。

少しずつ紹介していこうと思うので良ければ他の記事も読んでみてください。

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