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鈴木大拙館で出会った「命」の循環

こんにちは。人生哲学研究家、随筆家のおかゆです。

個性収集・研究家と名乗っていたのですが
『確かにこれも私を表す言葉だけれど、どうにも、少しわかりづらい気がする。もう少し、学者っぽい、私が探求している本質を表す言葉にしたい』

とモヤモヤしていたところ、先日訪れた石川県・金沢と加賀温泉でたくさんの功績を残された先人たちの歴史にふれ『やはり哲学って好きだなぁ。けれど私は哲学を語るほど、哲学に精通していない。であれば、人生哲学という表現ならば、私自身、また仕事や趣味(音楽、漫画、アニメ)などを通じてあらゆる人の生き様を見守り、知ることが好きであるので、適切かもしれない』
と思ってこの名称になりました。

ちなみに、今回出会った先人たち👇(既に永眠されているが、その軌跡と出会ったことで彼らと対話するような気持ちになった)

西田幾多郎氏…哲学者
鈴木大拙氏…仏教哲学者
中谷吉太郎氏…物理学者、随筆家

ちなみに、随筆家っていうのは、カタカナ語でいうところの「エッセイスト」です。エッセイストでもいいのですが、なんだか随筆家という表現に惹かれたので、こちらを使っていこうと思います。

いつもご挨拶が長くなるので、本題に入ろうと思います。

今回は、石川旅行で訪れた鈴木大拙館で、思わず涙を流すような体験をしたので、そちらについて触れながら、生きるとはなんなのか、私の死生観がアップデートされたエピソードをお伝えしていきます。



親族の死に直面する

今年、立て続けに祖父・祖母との死別を体験しました。大人になるまで"深い思い出のある人"が亡くなる体験をしたことがなかったため、私は自分の一部が欠落するような、なんともいえない空虚感を伴いながら、初夏、秋の始まりを過ごしていました。

祖母が他界した時

祖父が他界した時

誰しもが経験する、身近な人との別れ。これをどのように捉えればいいのかわからず、家の宗派のことを調べたり、四十九日ってなに?とお坊さんが解説する動画をみたり、なにかの『解』を求めていました。

鈴木大拙館で出会った、一冊の絵本

鈴木大拙館についての説明は割愛して、この場では本館の「学習空間」で出会った一冊の本から感じたことを述べていきます。

その絵本は…

『葉っぱのフレディ』

響いた言葉

昔、どこかで出会ったような記憶があります。
懐かしさを覚えてなんとなく手に取ったその本の中で、非常に響いた文章を引用します。

フレディは自分が色あせて枯れてきたように思いました。
冷たい雪が重く感じられます。
明け方フレディは迎えに来た風にのって枝をはなれました。
痛くもなく こわくもありませんでした。
フレディは 空中にしばらく舞って それからそっと地面におりていきました。

そのときはじめてフレディは 木の全体の姿を見ました。
なんてがっしりした たくましい木なのでしょう。
これならいつまでも生きつづけるにちがいありません。
フレディはダニエルから聞いた”いのち”ということばを思い出しました。
”いのち”というのは 永遠に生きているのだ ということでした。

(中略)
フレディは知らなかったのですがーーー
冬が終わると春が来て 雪はとけ水になり 枯れ葉のフレディは その水にまじり 土に溶けこんで 水を育てる力になるのです。

”いのち”は土や根や木の中の 目には見えないところで
新しい葉っぱを生み出そうと 準備をしています。
大自然の設計図は 寸分の狂いもなく”いのち”を変化させつづけているのです。

フレディが枝から離れて地面に落ちるシーン。

冬が終わると春が来て 雪はとけ水になり 枯れ葉のフレディは その水にまじり 土に溶けこんで 水を育てる力になるのです。

このあたりで、涙腺がこみ上げました。
「いのち」や「死」について触れる本作。
私は祖父母のことを連想します。

枯れ葉となったフレディが、土に溶けこんで、水を育てる力になる ということに、命の循環を感じました。

あぁ、おじいちゃんとおばあちゃんは、この地球が生き続けるための、育てる力になってくれたんだな

と。

決定的な勇気をもらう

小さい頃から、こうした物語や概念にはきっと触れてきたと思うのですが、鈴木大拙館という、思索をする場、非日常の切り取られた静かな場所、内省する自分…という様々な条件が重なり、涙がこぼれました。

人前ですし、グッとこらえたのですが耐えきれず、屋外の思索の空間で、ぽとぽとと涙をこぼしながら、水鏡の庭を見つめていました。

人との別れは悲しい。死別は、永遠に今の形ではあえない。
そのことをどうしてこんなにも悲しむのだろうか。
受け入れがたい事実ではなく、変化の一部であると捉えれば、二人の死を受け止められるのだろうか…。

自分の中で納得はしているものの、まだ、完全に悟りきって「死は変わることのひとつ」ということは、自分で自信をもっていうことは、できないかもしれません。

けれど、小さな、決定的な勇気をもらう言葉でした。
私は、自分の死については「いつか眠るように意識を失って、そのまま目覚めないのだろう」という感覚ですが、身近な人の死というのは、どうにもつらい。恐らくこれは、人間が群れをなす哺乳類の為、本能的に生存率をあげるために死を不安に感じ、所属を取り戻すことを促されているのだと思いますが。

納得と腑に落ちるのは違う

脳がそういっていても、心はそれでは納得がいっていない。
よく「腹落ちする」という表現がありますが、頭では納得しても、まだ腹落ちはしていない、という感じです。

原始的な生存本能を司る脳と、クリティカルシンキングする脳が拮抗しているように思いますが、私の思考はいつもこんな感じなので、ひとつ区切りがついた。大切な体験であったと感じています。

鈴木大拙館の本をセレクトしてくれた方、この絵本を届けてくれたすべての人へ。ありがとうございました。

最後に、葉っぱのフレディの出版社(童話屋)からの紹介をおいて、この場をしめたいと思います。

この絵本を、自分の力で「考える」ことをはじめた日本の子どもと、子どもの心をもった大人たちに贈ります。わたしたちはどこから来て、どこへ行くのだろう。生きるとはどういうことだろう。死とは何だろう。人は生きているかぎりこうした問いを問いつづけます。この絵本が自分の人生を「考える」きっかけになることを祈ります。本書は、アメリカの著名な哲学者レオ・バスカーリア博士が「いのち」について子どもたちに書いた生涯でただ一冊の絵本です。

絵本ナビ

それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。
またお会いしましょう。


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