背中にあるもの
「背中にあるものはなんだろう?」生物学や化学的な話ではなく、あくまで抽象的なイメージの話だ。10代、20代とかなら夢や希望…と言うべきなのかもしれないが、こんな混沌が加速する世の中にあってそんなに簡単に夢や希望など持てるはずもなく、それは自分たち(大人)作った社会の現実を棚にあげた若者への無言のプレッシャーだろう。「そんなこと言われてもさ…」「こんな社会にしたの誰だよ」という言葉が聞こえてきそうだ。
では30代や40代ではどうだろう。本来その世代にはその世代の夢や希望があるはずなのだが、そうしたものを自分の真ん中に据えれているひとが多いようにはどうしても見えない。また「意識調査」ではないが「自分が社会の役に立つ、貢献できる、変化させられる」と思って暮らしている人は前年代を通して先進国最低水準の日本…もはや経済、科学、文化どの面をとっても先進なのかどうかはなはだ疑問だ、唯一の先進性はいきついた過剰なサービスと究極の気遣いあわなければならない社会の在り様だろう。人が中心にない形骸化が進んだ問題先進地なのかもしれない…なのだから基本は何をしても「無駄」とあきらめたり無関心であるのだろう。そうした私たち「個」の多くの人が感じるのは「責任」とか「重圧」や「役割」ではないのだろうか。それ以上に全ての年代に通じて言えるキーワードがあるならそれは「不安」だろう。見えない何かが肩に手を置いているかのように、不安への入り口は毎日のありとあらゆるところに潜んでいて、何かあればすぐにそちらに私たちを引きずりこもうとしている。いや、違うな。引きずりこもうとするのではく、その存在に気が付いた瞬間にそちらに寄っていってしまうようにも思う。自転車が視線の先に向かって進んで行ってしまうように。
昨日はある講演会に招待されスポーツとか地域づくりについて自分が経験から学んだ知見を話させていただいた。そこでタイトルにもある「背中にあるものは」という話をした。不安や責任が背中にのっかっていないわけではないが、私はその背中にあるものを「スイッチ」と伝えた。自分には押せないスイッチがそこにはある。それは「やる気」ともいえる種類のもので、目に見えるわけでもないし、手が届けば自分で押せるというものではなく、けして自分では押せない。そう、ひとは自分の背中を直視することはできないし、そのような意味合いにおいてはけして手すら届かないのだ。そんなスイッチを押して、押せるのは他人の血が通った手だけだ。そして自分も誰かのスイッチを押すことはできるし、誰かは私のスイッチを押すことができる。いつでもだ。本当はいつだって押せるのだ。自分を鼓舞し奮い立たせ突破できたと思う壁もあるだろう。でもきっとその裏にはどこかで誰かが自分のスイッチを押して、その背中を押してくれていると思うのだ。いつかの、どこかの瞬間で、何気なく、さりげなく。そのように押されたスイッチはそのひとに健全的ともいえるプレッシャーを与えてくれる、実はその重みこそ人が小さくても大きくても壁を越えていく推進力なのだと思う。誰かを押して、誰かに押される。「わたしはわたし」最後は「個」だと多くの人は思う。そうした考えが加速する世の中だ。けれど生物学的に人は個と個が繋がった社会を築かないと、社会性の中にしか「生」を繋いでいけない動物だ。ひとりで繋いでいける「生」はどこにもないのだ。そこには動物的な役割も、性も、そして社会に対する責任がある。だからその自分を押す責任を健全な物へと転化する仕組み、または取り組みこそ、私たちが生きていくうえで真に大切なもののひとつではないのだろうか。そうした本質的に必要とされる、ひととひとの間にあるのも、その必要性や、価値をあまりに物質や資本に基づく経済循環の中で私たちは忘れてはいないだろうか。
昨日僅か時間の中で語りかけた言葉がそれを聞いた誰かの背中を押し、そしてまたその誰かが押した背中が生み出した活力とも言える新たな推進力が巡り巡り私のところまで戻ってきますように。その中で変化していく瞬間に発する熱量が「地域の新しい魅力を」「そこに暮す私たちが豊かになりたい」「素敵な色合いに変えていきたい」と願う地域を豊かな暮らしへと素敵な色合いへと動かしていきますように。
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