5月18日「(^.^)/~~~」
お題:博覧強記、付和雷同、曲学阿世
2021年5月18日の日記。
可塑性という言葉がある。よく使われるのは少年法に際してだろうか。さっくり言うと、可塑性とは変形しやすい性質を指す。少年法は少年の健全な育成を期し、非行少年に対し性格の矯正や環境の調節に関する保護処分を目的としている。その根底にあるのが「可塑性」の考え方である。つまり、少年は人格が発展途上であるから、適切な処置を施せば更生が可能である、というものだ。
少年法が特別視されている理由は、少年は成人と違い可塑性を有しているということ。また、家庭環境等により犯罪を犯してしまった場合、環境を変えれば更正する余地があるとされているためである。
ふと、想像してみる。
お腹が空いた。もう一週間も固形物を口にしていない。お金はない。親は帰ってこない、又は家で酒を飲み暴力をふるう。そんな究極の状態で歩いていると、先にコンビニが見えた。もし、自分がその子だった場合、万引きはダメなんて言ってられない状態だろう。嘘みたいな話かもしれないが、こんな子どもがごまんといるのが日本の現状である。
子どもは産まれる家庭を選べない。お金を稼ぐ手段もない。決して自己責任ではない貧困から罪を犯してしまった場合、それは果たして少年の罪となり得るのだろうか。
勿論、万引きはよくない。度重なる万引きがきっかけで、そのコンビニが潰れてしまうかもしれない。そうなれば、コンビニの店員たちは路頭に迷ってしまうだろう。次の職を探すまで、正社員であれば多少のセーフティーネットに引っかかることは可能かもしれないが、非正規だと難しい場合も多く、どちらにせよ両者とも生活を圧迫される。それを苦にした店員が自殺した場合、間接的ではあるが立派な殺人だ。
しかし、元を辿れば貧困や環境が原因であった場合、一番悪いのは貧困を生んだもの、現代の社会構造である。原因が人でないからこそ、責任の有無を問えず、この問題は放置されたまま改善どころか悪化している。
少年法や一般的な犯罪の難しいところは、罪の差別化がされておらず、どれも一様に扱ってしまう点だろう。私は、罪は差別化し扱うべきだと思う。寛容であるべき部位は寛容に、厳重にすべきものには厳罰を処すべきだ。しかし、罪の差別化(特に少年法)が今日まで積極的に行われてない理由は、罪の測り方には個人差があるからだ。あと少年法に関しては、可塑性への淡い期待もあるかもしれない。
例えば、重大な犯罪、残虐非道な方法で殺人を行った場合、多くの人々が厳罰化や本名の開示を少年に求めるだろう。
しかし、先程のコンビニ窃盗の場合、世間の処罰や対応は割れるのではないだろうか。少年と言えど罪は罪だと主張し、少年が社会に出た後も犯罪者呼ばわりする者たち。他方で、この罪は自己責任ではない、環境のせいなんだ、少年は可塑性があるからきっと更正すると軽罰を望み、社会に出た後も差別をなくそうと主張する者たち。どちらも果てしなく他人事のような気がするのは私だけだろうか。
貧困は自己責任ではないから、貧困によって生じた犯罪も少年のせいではない。という意見はわかる。わかりはするが、先程のコンビニの店員たちのように幾ばくかの人生を狂わせてしまったと考えると、全て軽罰というのも違和感が残る。決して少年だけのせいではないが、一部は少年のせいでもあるのだ。少年が社会に出た後、むやみにやたらに犯罪者呼ばわりするのを、一種の罰だと考える人もいる。確かに、可塑性は信頼しきれない部分もあるから、元・犯罪者という目印がある方が、周囲の人間は安心かもしれない。ただ、現状としてそれがどの犯罪も一律に犯罪者と呼ばれてしまうことが問題なのである。社会復帰しようとした矢先、無意識な悪意により蓋をされる。もしそれが原因で、社会で生きていくことが不可能だと絶望し、自殺してしまったら、犯罪者はどちらだろう。
少年法やあらゆる罪への社会の対応は、かなり難しい。博覧強記し、知識を蓄え、多角的な視点から社会についてひたすら熟考し続けることで、ようやく答えが出るのだろう。それが間違いか正解かなんて話は別にして、思考することが必要なのである。
曲学阿世、付和雷同というか、世論がこうだから自分もこう思うことにしよう~といった思考停止風見鶏ピーポーに、人間が殺されはしないかと心配になる日がある。
何が起こるか予期できない日々の中で、明日あなたが犯罪者になるかもしれないのだから。
でも、自分もまだまだ未熟で風見鶏な一面があるだろうから、この文章は全て戯言ですね。(^.^)/~~~