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翳りゆく風呂場
湯船があるとよく潜る。しかし、現在私が暮らしている部屋には湯船がない。正確に言えば、湯船自体は存在するのだが、破格な家賃に見合ったタイプの浴槽で、小さな上にカビ臭く、とてもじゃないが湯なんて張れたものではない。故に我が家には理想の湯船がなく、潜ることができないのである。
けれど、実家に帰省すれば問題ない。実家には大きな私が沈む程の綺麗な湯船があり、そこへ毎晩たっぷりと湯を張っては、仰向けに身体を丸め湯船に潜る。この光景を偶然見た母からは「赤ちゃんがお腹の中にいる時と同じ体勢だね」との見解を受けた。
湯船に潜り、水中で目を開けると、ぼやけた風呂場の灯が、水面の揺れとシンクロし炎のようにチロチロと舞っている。すりガラス越しに焚き火を見ているかのような気分だ。ふと、視線を落とすと、無個性に佇む手足に張り付いた、小さな気泡たちが目に留まる。静謐に並ぶ小さな気泡は、まるで海藻に産み付けられた魚卵のようだ。
ぱちん。ぷくぷく。
呼吸で身体に熱が宿る。同時に手足が揺れると、小さな気泡たちは、ゆっくりと水面に向かい歩き始める。狼煙のように立ち昇る気泡を眺めていると、浅い湯船に浸かった自分が、逆に沈んでいるのかと錯覚する。
川や海にいると、暗い水底に沈んでいくのは果てしのない恐怖だ。しかし、湯船で感じる沈む感触は、安堵感が勝る。明かりが遠ざかり、翳る水底へ堕ちていく度、どこか羊水に浸かっていた胎児に還ったかのような、まるで自分自身がひとつぶの泡になった気持ちになる。
先程見ていた、脆く弱く弾けそうになりながら、私の手足から水面に向かい昇っていった気泡の一粒。そこに私が居たかと思うと、ああ明日も精一杯生きていこうと痛烈に感じることができるのだ。
気泡の狼煙は、今日も規則正しく水面に向かう。ただ、どうしても、自分が息を殺しても、身体が動いた反動で波が起こらなくても、水面まで到達出来ず、水中でぱちんとはじけてしまう泡がある。それは、誰のせいでもない。自然の摂理なのだ。
だからこそ、私は泡として、決して自分からはじけて消えることはしない。どうしようもない事が起きない限り、日々淡々と、狼煙の一部として水面を誠実に目指すのだ。例え自分がいつかはじけて消えてしまうことを知っていたとしても、一生懸命に命を燃やし、狼煙をあげることが泡としての使命だろう。
そのようなことを、仄かに揺れる水底からじっと水面を見つめ、今日も考えている。