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日頃疑問に思うマナーを右から、右から、左へ受け流す〜〜CHARA CHA CHA CHARA CHA CHARA CHA CHA CHARA CHAの話
あ、マナーって世相によって曖昧になるものなんだなと発見できたことがこのコロナ禍での唯一の収穫だった。
マスクするのは失礼、という認識からマスクしないと論外という意識へマナーが変化したのを目の当たりしたことが発端である。
マナーは曖昧なもの、そう気づけた瞬間学生時代マナーに厳しい業界でアルバイトしていたときの押し込まれたような、鬱々とした気持ちが一気に晴れた気がしたものだ。
ところで、実際に書き出しといて何だよという話だが、マナー論のようなものに対して私はあまりにも無知であるため、ここでマナー云々について語ることはできない。
しかし、マナーについて少し考えた際に、「帽子のマナー」について、過去に大きな思い入れ、思い出のようなことがあったなと記憶の抽斗がガタガタなっていたので、年末の大掃除がてらここに書き記そうと思う。尚、曖昧な部位は脚色して書いたので創作エッセイのような形で読んで頂ければと願う。不快な気持ちになった方は申し訳ない。
学生時代、1人の先生がいた。その先生はいつも絶妙な位置に黒いベレー帽を被っていて、顔を覚えるのが得意じゃない私は、あんなに分かりやすい目印をつけてくれてありがたいことこの上ないと、とても好感を持っていた。しかし、ある時、100人ほど入る大きな教室でその先生の授業を受けていると、キャップを被った生徒が遅れて前方の扉から入ってきた。この日は運悪く外部から講師の方を招いた授業の日で、遅刻するくらいなら欠席しろと先々週ほど前から懇々と予告されていた授業だった。
遅刻したキャップの君を見たベレー帽の先生は「おいっ!こっちこい」と生徒を最後尾に呼び出し、外部講師の方には手で「どうぞこちらは気にせず進めてください」と合図した。この状況下で集中できるはずないだろと多分外部講師の方含め全員が感じたと思う。偶然にも最後尾にいて、手が二本ほど離れた斜め後ろにベレー講師とキャップの君がやってきた私は、大学の先生とはどのような怒り方をするのだろうと興味が沸いて沸いて仕方がなかった。しかし私には脳がひとつしかないので、前方か後方どちらに集中力のピントを合わすか選ばなくてはならなかった。結果的に本筋の授業の方は右から左へ受け流すムーディ勝山式メゾットを取り入れた。おかげで単位も右から左へ流れていったのだけど、そのことはもう水に流してほしい。先生、お母さん、ごめんなさい。
後方に連れられていった生徒はうなだれながら「しまった、今日はそうだった」という顔をしていた。その顔を見た瞬間キャップの彼が可哀想でいたたまれなくなった。彼だってきっとわざとじゃない。長い人生のなかで人は過ちを犯し反省し罪を身ごもり生きていくのだ。失敗のない人生はつまらない。失敗してもそこから学べるというのは(どんな形であれ)挑戦した人だけの特権であり、それが未来への布石となるのだ。そんなようなことを最近私がハマったジャニーズも言っていた、気がする。希ガス。水兵リーベ僕の船。
しかし、そんなキャップの彼を、ベレー帽の講師は非情にも𠮟りつける。
「何度も言ったよなぁ!今日は外部から講師の方が来てくださるから遅刻するなって!遅刻するくらいなら欠席しろって!そもそも大学生にもなって時間も守れんのか!」
ベレー講師の言うことは的を得ている。社会に出て損をするのはキャップの君だからこそ、ベレー講師は口を酸っぱくして叱ってくれるのだ。未成年という星を脱し、成人という星に仮住まいを建てる私たちは、中々大人に𠮟ってもらう機会がない。そう考えるとベレー講師の説教が愛のあるものに感じかけた。が、それを加味してもそんな怒号で、唾も飛ばしまくって(数年前の話です)、ストレスたまってるのか心配になる怒り方だった。せっかく張った愛のフィルターをもぶち壊していく怒りのスタイルは、破壊と創造を繰り返す遊び通称トンネル開通を司る砂場の園児のようだった。あと個人的に、万年遅刻症を患っている身としてはかなり耳の痛い話だった。しかも開始前に冷たいコーヒーをがぶ飲みしたせいか心なしか胃まで痛かった。耳と胃がしくしくと痛む中、ベレー帽講師の怒りは沸点に達した。
「ひとと話すときくらい帽子を脱げっ!マナーだろ!」そう叫んだのである。
いやそれyouだよ!
私の中のジャニー喜多川さんが叫び返したと同時に、つい反射的にバッと後ろを振り返ってしまった。
初めて近距離で見た先生が被っていたのは、ベレーでも帽子でもなく、
カツラだった。
その時私の視力は0.1を切っていた。切っていながらも眼鏡デビューが何故か気に食わず裸眼で授業を受け続けていた。その報いが一気に押し寄せてきたようだった。
翌年、ちゃんと眼鏡を買った。ベレー講師の授業はもう受けていなかったので、彼の帽子を見かけることはなかったが、レンズ越しに見える世界、皆が普段見ている世界はどこまでも明瞭で、美しく、残酷だと悟った。
眼鏡をかけていると、星がよく見える。
夜中ベランダに出て満天の星空に焦点を合わす度、
「大切なものは、いつも目に見えない。」
星の王子様がそう耳元で囁いてくれる気がするのだ。
だからこそ、見えないものを想像する力を養うためにも、読書や経験、思考し続けることが大切なんだな〜、あと眼鏡めっちゃ大事だな!と、大掃除途中抽斗の奥まったスペースで縮こまるベレー帽を発見し、ぼんやり感じました。
年末ですね、来年は丑年か。
ヌーの大移動の動画でも観ようかな。
良いお年をお迎えください。