出歯亀伝説 ④出歯亀の歩いた道
それでは、予審調書と、裁判で亀太郎本人が語った証言をもとに、改めて、事件当日の亀太郎の行動を追っていこう。
明治41年3月22日。早朝、亀太郎は、四谷愛住町に住む親方・高野源吉の家に行き、仕事にありついた。場所は荒木町。亀太郎の家からはすぐ近いとは言え、四谷区だから、東京市内である。仕事は、取り壊した家の材木の運搬だったようだ。作業はふたりで始めたが、途中で3人合流し、結局、5人になった。夕方、5時を回ってから仕事を終えると、一度、愛住町の源吉の家に戻り、その妻から、50銭を借りたという。あるいは、この50銭は日当だったのかもしれない。現代の通貨価値からすると、5000円から10000円ほどだろうか。この時点で、すでに、6時頃だったという。この日の日没時間が5時54分だから、うっすらと日が陰ってくる時間である。
亀太郎は、愛住町から暗坂(くらやみざか)を下った。暗坂は、愛住町から、当時は北裏通りと呼ばれていた靖国通りへと下っていく坂道である。西側は崖で、東側の全長寺に繁る竹藪が道を覆って暗かったところから名づけられたという。暗闇坂、くらがり坂、などの呼び名もあったようだ。永井荷風は、「然し暗闇坂は車の上らぬ程急な曲った坂で其の片側は全長寺の墓地の樹木鬱蒼として日の光を遮り、乱塔婆に雑草生茂る有様何となく物凄い坂である。」と書いている。(「日和下駄」)
まだ、日没前とはいえ、そこは暗闇坂である、亀太郎は、暗く寂しい坂道をとぼとぼと下っていった。
坂を下りきった亀太郎は、北裏通り(靖国通り)に出た。このあたりで、亀太郎は知人と落ち合い、帽子を貸したという。空は少しずつ暗くなってくる。日が沈みかける西の方角に向かってしばらく歩いた後、再び、南下する。通ったのは、田安通りであろうか。行き先は、甲州街道の大木戸である。四谷区民センターの前に、今も、新宿御苑の大木戸門が残っている。大木戸は、羽村堰を起点とする玉川上水の終点であり、江戸市中と市外とを分ける境界であった。この当時も、大木戸の東は東京市、西は市外である。
冷え込んできたこともあったのだろう。亀太郎は、この界隈の「尼崎」という居酒屋に入った。この時、6時半くらいか。「豊多摩郡の内藤新宿」(「新宿区立図書館紀要」)に収められた「古老の記憶図から明治35年前後の駅前通り」という手書きの地図を確認すると、「濁酒・尼崎」という屋号を見ることができる。場所は、新宿通り、外苑西通りとの交差点から四谷にやや向かった右側だ。今も、飲食店が何軒か並んでいる。ここで亀太郎は肴を頼み、焼酎三杯半を飲んで、十七銭を払って店を出た。時刻は、ここで、おそらく、7時頃。すでに酔いが回っている。亀太郎は、「尼崎」のすぐ近くの店で草鞋を買い求めた。この「草鞋屋」も地図で確認できる。通りをはさんで「尼崎」の向かいで、当時、この場所にあった理性寺の隣、新宿通りと外苑西通りの交差点をわずかに新宿方面に向かったところである。この草鞋屋について、こんな文章が残っている。明治30年代を回想したものだ。
「新宿一丁目の御苑のあたりは、南側が憲兵屯所、その前側、すなわち北側は理性寺という日蓮宗のお寺で、赤い門があり境内には大黒様のお堂がありました。門前に大きな松の木があって、その脇に小さなよろずやだったか腰掛け茶屋だったかがあって、この店先に馬の草鞋、人の草鞋がぶら下がっていて、(中略)道路の幅はやっぱり三間くらいでしたか、杉木立があって夜などは、鼻をつままれても分からないぐらい真っ暗で、夜間外出する時は小田原提灯をもっていったものでした。」(「豊多摩郡の内藤新宿)
道幅三間くらい、というと、5メートルから6メートルだろう。今なら、せいぜい、歩道くらいの幅だったということだ。亀太郎も、吊るされていた草鞋を買い求めたのだろうか。ここで、真新しい草鞋に履き替えた。明治36年の「新撰東京名所図会」に、理性寺の門前を描いた絵が収められており、茶屋らしき店を認めることができる。
大木戸門から東は四谷区、西は新宿である。新宿は、まだ郊外の寂しい町だった。数年前から、この通りには市電が走っていた。東京市に市電が開通したのが明治36年。新宿と半蔵門の間は、2年前の明治39年に開通している。この通りは、内藤新宿と呼ばれた宿場町で、もちろん、この当時、遊郭なども残っていた。
「そのころは、四谷見附から新宿へ向けて走る電車が終点に近づいて行くと、電車通りに新宿の遊廓の建物がならんでいるのが窓から見えたものであった。」と書いているのは、恒藤恭である。(「旧友芥川龍之介」日本図書センター)
亀太郎は、西の方角に、市電の線路に沿って少し歩いた後、道を右に折れる。その角には、今は文芸社の本社ビルが立ち、テナントに「コメダ珈琲」が入っている。亀太郎が入りこんだ道は、麹屋横丁という。江戸時代から存在する地名で、このあたりに麹屋があったためとも、麹屋甚兵衛というものが住んでいたためともいう。この横丁の中ほどに女性理髪師の店があって、亀太郎はここに入った。この頃には、日もとっぷりと暮れていた、と、亀太郎は語っている。この時点で、日の入りから1時間以上が過ぎ、7時を過ぎていたと考えれば、確かに、あたりはもう真っ暗だったろう。すでに酔っていた亀太郎は、散髪にいくら払ったのかは覚えていない。ちなみに、当時の散髪料はおよそ10銭ほど。だとすれば、ここまで、27銭程度を使っていることになる。理髪店を出たのは、おそらく、8時ちょっと前だろう。湯屋に向かおうと、エン子が、自宅を出たという時刻が近づいている。
予審調書と、裁判での亀太郎の供述とが一致しているのは、ここまでだ。
まず、予審調書に沿って、亀太郎の足取りを追ってみよう。
理髪店を出た亀太郎は、麹屋横丁を北上する。亀太郎の住む東大久保は、ほぼ真北の方角だ。再び北裏通りに出て左折し、さらに右折すると、路地はまっすぐに続いている。道の右側は、四谷区から牛込区へと変わり、東京市内、左側は、東大久保、東京市外である。右手には、明治36年に作られていた東京監獄とその塀が見えていたはずだ。数日後に、まさかこの中に入ることになるとは、亀太郎は思いもしなかったに違いない。道をまっすぐに進んでほどなく、西光庵の門前に亀太郎の家が見えてくる。ところが、悪い癖が頭をもたげてしまう。女湯を覗くことを思いついてしまったのだ。亀太郎は、家に戻らず、そのまま路地を進む。路地は、抜弁天に続いていた。東大久保には蟹川が流れており、巨大な窪地であった。「大きな窪」だから、大久保、という地名が生まれたとされているが、その窪地を見下ろす高台に作られていたのが抜弁天厳島神社である。亀太郎は、抜弁天の高台から、東大久保の窪地へ続く坂道を下った。久左衛門坂といって、江戸時代から残る古い坂である。
この日の亀太郎と同じ経路が描かれた小説がある。森田草平の「煤煙」だ。「煤煙」は、森田草平と、平塚らいてうこと平塚明との、心中事件を描いた私小説なのだが、この騒動が起きたのは、まさに明治41年。それだけではない。行方をくらませた明に捜索願が出されたのは、エン子が殺害される前日、3月21日であり、塩原温泉の山奥を彷徨うふたりが発見されたのが3月23日であった。「煤煙事件」は、実は、出歯亀事件と同時進行で世間を騒がせた事件だったのだ。その後、森田は、師匠である夏目漱石に、事件の顛末を小説として著すことを勧められ、翌年の明治42年、新聞の連載小説として書かれたのが、「煤煙」である。小説の後半は、森田自身である要吉と、明子である朋子の恋愛を中心に描かれているが、要吉の友人として、生田長江がモデルとされる神戸という人物の家に赴くくだりが何度か描かれる。神戸は、大久保駅のすぐ近くに住んでいる。
中でも、東大久保を描いたその描写は、要吉と朋子が逃避行をする直前で、つまりは、明治41年の3月くらいの設定だろう。番町で用事を済ませた要吉は、その後、市ヶ谷の浄瑠璃坂を抜け、大久保の神戸宅へと向かう。
「で、方角の知れない大路小路をぶらぶら歩いていたが、一向目に留めて捜すでもなく、何時しか余丁町の先から郊外の田圃の中へ降りた。」
要吉は、東京市内である余丁町の先、つまり、抜弁天の高台から、東京郊外である大久保村に降りていく。まさに、亀太郎が歩いた久左衛門坂を下ったのだろう。坂の下は、蟹川が流れる窪地であり、田圃や畑が広がる田園地帯である。要吉は、ここで蟹川沿いの道を歩いたのだろうか。
「二たび坂を上がって、四五町行ってから植木屋の垣根について曲がれば神戸の住家だ。」
要吉が上がった坂は、椎木坂か。現在、大久保通りに並行している椎木坂こそ、当時の大久保通り本道であった。大久保通りは、蟹川の深い窪地に下り、蟹川を渡ると、再び、登る。昭和に入った頃、旧道の頭上に、空中バイパスともいうべき新道が作られ、時期を同じくして、蟹川も暗渠となって地中に姿を消した。
もうひとつ、東西に走る通りに南から上がってくるだらだら坂がある。坂の左手には、学校があった。明治36年(1903)に、川田鉄弥によって創設された高千穂学校で、小学校、中学校、高等学校までそなえた一貫校であった。戦後になって、杉並区へと移転する高千穂大学の前身である。敷地に沿って蟹川が流れており、また、敷地の隣には、「豊香園」という植木屋があった。出歯亀事件の翌年の明治42年には、清から来日した蒋介石青年がここに下宿していたという。
いずれにせよ、坂道は、旧大久保通りと合流し、西大久保の台地へと続く。さらに、通りを西に歩けば、すぐ左側に幸田家があり、その向かいを右に折れれば、森山湯へと続く。幸田家も森山湯も知らない要吉は、当然、そのまま通りを進み、大久保駅に近い神戸の家まで向かったが、亀太郎は、幸田家の前の道を右に折れると、森山湯へと向かったというわけだ。
予審調書によれば、森山湯へやってきた亀太郎は、湯屋の壁に開いた節穴から女湯を覗いた。そこにいたのが、エン子だったという。亀太郎はエン子に目をつけ、湯屋を出たところをうかがい、数十メートル離れた、人気のない空き地に引きずり込んで暴行を働いたことになっている。エン子が悲鳴を上げようとしたので、慌てて、彼女が持っていた手ぬぐいで口を塞いだ。これが直接の死因となった。犯行後、亀太郎が、東大久保の家に帰り着いたのは、9時頃だったという。
エン子の遺体が発見されて、その後の顛末はすでに書いたとおりだ。亀太郎には、女湯を覗く悪癖があり、また、直接、暴行を加えようとして声を上げられ、未遂に終わったことも何度かあるということで、嫌疑者のひとりとして取り調べを受け、自白に至ったという。以上が、予審調書をもとにした、亀太郎の行動である。
ところが、裁判で語られた亀太郎の証言はこれと食い違う。8時前に理髪店を出た亀太郎は、再び、近くの居酒屋に入って焼酎を飲んだ。「長田石材」という石屋の向かいの店だったという。前出の地図「古老の記憶図から明治35年前後の駅前通り」によると、「長田石材」は、現在の新宿一丁目、花園通りの花園小学校の向かいにある。つまり、亀太郎が飲んだ店は、花園小学校か、その並びにあったと思われる。亀太郎が外に出たのは、おそらく、8時を過ぎていたはずだ。エン子は、すでに西大久保の湯屋にいる。
居酒屋を2軒ハシゴしている亀太郎は、泥酔に近かったのだろう、ここで道を間違える。すぐに北上し北裏通り、つまり靖国通りに出て、予審調書にも書かれた一本道に合流していれば、30分とかからずに自宅に戻れるはずだったが、北裏通りに抜ける道を見失い、そのまま花園通りを西に向かって、つまり、新宿駅の方向に歩を進めてしまう。ここは、今の新宿二丁目である。亀太郎は、すぐに太宗寺に行き当たる。靖国通りと新宿通りの合間、新宿御苑のすぐ近くにある太宗寺は、太宗という僧侶が建てた草庵を前身として、1668年に建立されたと言われ、長いこと、内藤家の菩提寺であった。内藤家といえば、もともとは徳川家の家臣であり、その広大な敷地の一部を幕府に返上して出来上がったのが、いわゆる「内藤新宿」と呼ばれる宿場町であり、これが、今の新宿の始まりであった。三田村鳶魚は書いている。
「一番新宿の盛んであったのはやっぱり文化文政の頃であって、太宗寺の山開きといえば、江戸中に誰知らぬ者もなかった。あの名高い閻魔の賽日、正月と七月とに後園を開放する。それが山開きなのである。太宗寺の庭は今日(大正14年)でも、さすがに幽邃な趣きを残して昔のおもかげがしのばれるが、維新前は大きさも現在のようではなく、四境遠く市街を離れ、古木老樹の茂みに奥深く、泉石の苔滑らかな様子は、いかにも閑寂を極めたものであって、夏の暑さもここでは忘れてしまったという。」(三田村鳶魚「江戸生活事典」青蛙房)
また、明治4年頃には、幼い夏目漱石が、この大宗寺の裏手に住んでいて、境内でよく遊んでいたという。「道草」に、その頃の太宗寺の様子が描かれている。
「葭簀の隙から覗くと、奥には石で囲んだ池が見えた。その池の上には藤棚が釣ってあった。水の上に差し出された両端を支える二本の棚柱は池の中に埋まっていた。周囲には躑躅が多かった。」
漱石が描いているように、太宗寺には池があって、そこを水源として、小川が流れ出していた。池は、今では新宿公園の敷地となっているが、この川こそ、蟹川の支流である。本流は、歌舞伎町を水源として生まれ、北東に進んでいた。そして、まっすぐ北上する支流と、東大久保の西向天神社の眼下で重なってひとつになる。当然、亀太郎もそのことは知っていたはずだ。つまり、例え、道に迷ったとしても、川に沿って歩けば自宅にたどり着くのである。
亀太郎は、太宗寺に沿った太宗寺横丁をわずかに北上し、蟹川に沿った道を歩きはじめる。ところが、わずかに歩くと、川は、大きな屋敷の中へと吸い込まれてしまっていた。靖国通り沿い、番衆町の濱野邸である。3万坪ともいわれるこの広大な敷地は、先物取引で財を成して「新宿将軍」と呼ばれた濱野茂のもので、敷地に流れ込んでいた蟹川の水をせきとめて鴨池まで作られていた。濱野邸は、関東大震災後、西武グループの堤康次郎の手に渡り、そこに作られたのが、遊園地「新宿園」だった。野外劇場、映画館、ダンスホール、と、「浅草六区のような楽天地」を目指していたというが、経営難から、わずか2年で閉鎖された。亀太郎は、この広大な濱野邸に突き当たってしまったのである。蟹川は屋敷の敷地へと流れ込んでいる。川筋を見失った亀太郎は、北裏通り(靖国通り)を、再び、西へ進まざるを得なくなった。それでも、濱野邸の塀を回り込んで再び北上することは可能だった。ところが、かなり酔っていたに違いない亀太郎は、そのまま、靖国通りを西へ、西へと歩き続けてしまう。濱野邸の向かい、亀太郎の左手には、耕牧舎と呼ばれる大きな牧場があった。牧場の支配人の息子が芥川龍之介である。龍之介は生まれてまもなく芥川家の養子となったが、その芥川家は、出歯亀事件の翌年の明治42年、牧場の一角に住むようになる。からたちの花が牧場を囲み、花園のように鮮やかな土地だったようだ。とはいえ、真っ暗な中である。まして、酔った亀太郎が、牧場の花に気づいたとは思えない。
たどり着いたのは、市電の新宿車庫であった。後に、伊勢丹百貨店ができる敷地である。甲州街道、つまり、居酒屋「尼崎」の前の道を走っていた電車は、この車庫へと収まることになっていた。車庫といっても、野原の中に車両が置かれているだけだったらしい。敷地の奥には孟宗竹が群生しており、その向こうには材木屋があって、これが、後の紀伊國屋書店である。また、その隣には、新宿警察署があった。数時間後にエン子の遺体が発見されるや、管轄署として捜査に着手することになるだけでなく、亀太郎は、数日後に、ここに勾引され、取り調べを受けることになるのである。明治38年9月、日露戦争の講和条約に不満を持った市民の、日比谷焼き討ち事件が起きているが、その翌日、ここ、新宿警察署も襲撃されたという。
さすがの亀太郎も、ここで、道を間違えたことに気がついた。時刻は、9時に近づいていた。エン子の殺害時刻である。そんなことはつゆぞ知らない亀太郎は靖国通りを引き返す。そして、再び、濱野邸に行き当たると、その手前で左折し、濱野邸の塀に沿って北上する。靖国通りからまっすぐに伸びるこの細長い道は、現在では「三番街」と呼ばれ、飲食店などが点在している。
やがて、道を抜けた亀太郎は、一筋の川に突き当たった。歌舞伎町から流れてきていた蟹川の本流で、亀太郎の左手から右手へと流れている。今では、文化センター通りと呼ばれる道こそが、かつての蟹川流路であった。当時、このあたりは新田裏と呼ばれており、見渡す限りの田圃だった。この時、時刻は、9時を回っていただろう。おそらく、エン子は、もうすでにこの世の人ではない。亀太郎は、出会った蟹川の流れに沿って東へと歩く。真っ暗なあぜ道は静まり返っている。まばらに散らばる家々も草葺き屋根で、肥溜めも置かれていた。川面に映る澱んだ月明かりだけが、亀太郎の頼りだったろう。亀太郎以外に歩く人もいない。となれば、確かにアリバイはない。酒もしっかり飲んでいる、もしかしたら、亀太郎、途中で、川に向かって立ち小便くらいしたかもしれない。
蟹川はすぐに、右手から迫ってくる小川と合流する。つい30分ほど前に、亀太郎がその川筋を見失ったばかりの蟹川支流である。亀太郎は、ここで再び支流に会えたのである。ふたつの川が重なり、さらにいくつかの水路に枝分かれしている。小さな池もある。池の向こうには高台があって、見上げると鳥居の先に、西向天神社の境内が広がっている。もともとは、大久保天満宮とも大窪天満宮とも呼ばれていたが、西に向けて眺望が開けているところから、西向天神と呼ばれるようになった。ここからの夕日は江戸の名物だったという。永井荷風は書いている。
「東都の西郊目黒に夕日ヶ岡というがあり、大久保に西向天神というがある。倶に夕日の美しきを見るがために人の知る所となった。」(「日和下駄」岩波文庫)
長く急な階段を登って境内を抜け、ほんの2,3分ほど歩けば、亀太郎の家である。ところが、天神様の高台に上がり、大久保の窪地を見下ろした亀太郎は、気が変わった。久左衛門坂の湯屋に行こうと思いついたのだ。
境内を抜けた亀太郎は、そのまままっすぐに道を進み、余丁町の通りに出ると、その突端である抜弁天から、東大久保へと続く久左衛門坂を下った。この坂のどこかに、亀太郎が目指した湯屋はあったようだ。現在の新宿七丁目である。今も、久左衛門坂と、隣り合う梯子坂との狭間に、「東宝湯」という銭湯が営業しているが、この銭湯自体は、昭和27年の開業だそうだ。そのはるか以前の明治41年にも、この同じ場所に湯屋があったかのかはわからないが、大量の水を汲み上げ、放水する銭湯は、川の近くに建てられることが多い。ほぼ同じ場所に湯屋があったことは想像に難くないだろう。新宿七丁目には、「東宝湯」の他に、「金沢浴場」という銭湯が今も現役である。
ところが、またしても亀太郎の気が変わる。一度下った坂を再び上がると、抜弁天から余丁町の道を戻り、帰宅した。妻はすでに床についており、亀太郎が戻った時間は知らない。膳が用意されていたというが、疲れていた上に、酔っ払っていた亀太郎は、そのまま布団に入って眠ってしまったという。そんなわけだから、帰宅時間についてははっきりしない。亀太郎本人もよくわかっていない。ただし、9時を大きく過ぎていたことは間違いない。幸田家で、帰りの遅い嫁を捜し始めた頃だ。
こうして、亀太郎の一日が終わった。亀太郎の証言を信じるならば、日雇いの仕事をして、酒を飲んで帰る、という、亀太郎にとってみれば、ごく普通の一日だったはずだが、この日だけは、何かが違った。
亀太郎の運命が大きく変わろうとしていた。数日後、事件の嫌疑者の一人として新宿署に連行され、自白に至るのである。