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映像翻訳者になって、そして辞めるまでの10年間を綴る(3)
こんにちは!
さて、本日はコチラの続きです。
晴れて映像翻訳者になったはいいものの、すぐに独立できるほど甘い世界ではなく…。
というか、そもそも、それだけで独立することなんてハナから想定されていない職業だと思います。
できる人は本当にすごい。本当に優秀なんだと思います。
すっかり居心地のよい場所となってしまった会社を辞めるわけでもなく、翻訳の仕事も細々と続け、海外ドラマを見ては「あ〜アメリカ行きたいわ〜」とぼんやりつぶやく日々。
そんな折ですね。
コロナ禍(36歳〜38歳)
そうです。未曾有の大惨事。
こんなことが起きるなんて、いったい誰が予想できたか…という感じですね。
①会社はどうなったか
サービス業の一種だったため、がっつりとコロナのあおりを受けました。2020年3月からお客様のキャンセルが相次ぎ、あれよあれよという間にメッチャクチャ暇に…。
(前にも書きましたが)ある大企業の委託契約で成り立っていた部署だったので、即解雇のような事態にはならず、それは本当にありがたかったですが…。
1日8時間、ほとんど何もやることがなくなり、そのくせ、たまーにお客さんが来ることもあるため出社はマスト。
未知のウイルスに対するストレスもあいまって、職場の雰囲気が目に見えて悪くなっていったんですね。
入社してから4年以上が経過していました。その間にずいぶんと人も入れ替わり、パワーバランスもちょっとおかしな感じに変わり、次第に「ああ、もうここにいるべきじゃないのかも」と思うように。
5年目、契約社員から準正社員(のような)に雇用を変えていただいたタイミングでもありました。
②翻訳の仕事はどうなったか
会社が暇になったことで毎日定時で帰れていましたし、社員全員が交代で休みを取っていくということも何回かあったため、受注できる案件数は増えました。
ステイホームでネット配信コンテンツの需要も高まったこともあって、依頼も途切れませんでした。
翻訳にようやく、ほんの少し慣れてきたこの頃。
やっと大きな問題点に気づきます(遅)。
どんなベテランさんでも、訳せる尺は1日15分が限度なのでは…?(遅)
人間の体力には限界があります。
加えて、1日は24時間しかありません。
アラフォーにでもなれば、どれだけ少なく見積もっても1日5時間は寝ないとマズいです。
力さえつけば、キャリアさえ積めば、果てしなく無限に訳せるようになるなんてことあるわけないんですね…。
だけど、この頃はまだ、「映像翻訳だけで稼げないなら、兼業すればいいじゃない」精神でした。
留学を決意する(37、8歳?)
この時点でまだやり残していること、次にやるべきこと。それはやっぱりアメリカ留学だ!と思ったのもこの頃でした。
noteを読み返すと、2021年、つまり37歳のときに一応うっすら決意してたみたいです。
もう時系列すらあいまい。
通ってた翻訳スクールの分校がアメリカにあるので、そこで日→英字幕翻訳と通訳スキルを学んで、フリーランスへの道を切り開いていこうと決めたわけです。
今だから言えることですが、本心から「本当にその生き方がいい!!最高!」と思っていたかは微妙です。どちらかというと、なんとな〜くこれがいいかな…ほんまに…?くらいの意識だった気が。
それよりも何よりも、まあとにかくアメリカに長期で住んでみたかったんですね。
ついに、会社を辞める(38歳)
1日中ほぼなにもやることがなく、仕事は取り合いのような形になり、年月を経て人も入れ替わり、少しずつ居心地が悪くなっていた会社。準正社員になったものの、あまり喜べなかった自分。
人生が停滞している気がしたんでしょうね。
私は思いました。
「これはもう、次のステージへ行けというサインなんだな」と。
次のステージってなんだよ!!明確に言え!!と今ならツッコめますが、当時は「1分たりとも人生は停滞してはならない。成長し続けなければならない」と思い込みすぎて、とにかく何かしら動いたモン勝ち、みたいな意識だったんです。
停滞って、コロナ禍なんだから多かれ少なかれ誰でも停滞するだろって感じなんですよ。
今ならわかるのに…。
そんなわけで(どんなわけで?)6年近く勤めた会社を辞め、留学に向けて動き出そうと決意。
勤務最終日はさすがにいろいろと思うことはありました。
必死で泣くのを我慢しました。
6年近く、朝から晩まで本気で働いて、たくさんの人と関わり、たくさんのことを学び、いろいろな経験をさせてもらえた職場。
あのとき辞めなくてもよかったのかも、と思うことは今でもあります。ただ、結局のところ、コロナによって離れたお客さんが戻ることはなく。
私が辞めてからしばらくして、その部署は本社からバッサリ切り離され、社員は全員、子会社などに移籍となり、散り散りになりました。
だとしても、待遇そこまで変わんなかったらしいし、今思うと別に急いで辞めなくてもよかったのかも。っていう。
ちょうど会社を辞めたころのnoteに、わたし、こんなことを書いてました。
辞めた後は覚悟を決めて映像翻訳1本でいくか、映像翻訳と週2~3回英語講師という形で映像翻訳のウエイトを増やすか、今までどおり映像翻訳は副業で、メインを会社勤めにするかで死ぬほど迷いました(汗)
結局、留学するためにはお金がいるので、今までどおり会社員として働き、ある程度稼いでおこうという結論に落ち着いたわけです。
おい!!じゃあ、会社辞めないほうがよかったやん!!
ほんと、こんなにぼんやりした状態で、いったいこの先どうするつもりだったのか。留学費用を貯めるつもりなのに、なんでボーナスの出る会社を辞めたのか。
独身だから成せる技なのか、自分が人一倍考えなしなのか、そのときは何かしら自分なりの計画があったけど今は忘れてるだけなのか…
もうワケがわかりませんが…。
派遣社員として勤務開始(38歳〜)
とりあえず、留学費用も貯めつつ翻訳の受注数も増やしていこうと思い、派遣かつ在宅勤務ができる会社を選びました。
ある大手製薬会社の、契約関連の部署のサポート業務で、週4日在宅。それなのになぜか定期代は全額出るというんだから、ほんと製薬会社は強いなと思いましたね…。
さすがにほぼフル在宅ということもあり、翻訳の仕事は以前よりずっと受けやすくなりました。
このころのことを思い起こしてみると、やっぱり翻訳の仕事そのものはとても楽しんでやっていたと思います。
だけど私は、いつまで経ってもこれ1本で稼げるイメージがわかなかったし、今でも到底できるとは思えません。
さて、そんな感じで、コロナ禍ではあったものの毎日それなりに平和に過ごしていた頃。
留学先のスクールが、来年度の留学生に向けて奨学金を出すという情報をゲットします。
返済義務はなく、まあ言ってみれば数十万円の割引ですね。
ここで、ようやく決断します。
よし、行くしかない!!と。
だがしかし、実際にアメリカに飛び立てるその日まで、モヤモヤの連続でした…。
今日もお読みくださりありがとうございました!
また書きます。