コロッケ・白玉編[料理エッセイ・食べる記憶#1]
料理エッセイが好きでよく読む。読むだけで幸せになれるから。
料理も好きだ。
料理中、過去の記憶がこぼれ落ち私の心はとても饒舌。
2月 祝日
夜。なんの材料も無いなぁと思いながら冷蔵庫を漁っていたら、先日買ったまだ芽が出ていない元気なじゃがいもと、少し前に冷凍してあったひき肉が出てきた。(ちなみに野菜室の奥には芽が出ているじゃがいもがあって、そっと見守っている)
夕食にコロッケを作る。
一からコロッケを作るのは久しぶりだ。ひき肉を炒め醤油などで味をつける、玉ねぎを炒める、じゃがいもを茹でる。全部まとめてボウルに入れる。少し手間だけれど別々に火を通すのは、玉ねぎが白いまま、醤油味が付いていない方が好みだから。
コロッケの種を2つ分小判形に丸める。大分余る、想定通り。残った種にカレー粉をまぶす。これだけでカレーコロッケ。カレー粉って凄いって料理に使うたびに思う。今度は全体にカレー粉をまぶす、ポテトまでうっすらカレー味のコロッケの方がきっと私の好みだと想像する。(カレーコロッケを作るのは初めて)
コロッケを1から作るのがひさびさなのはここからが面倒だからだ、小麦粉、卵、パン粉のスリーステップ。他の揚げ物だって面倒だけれど、コロッケがより面倒だなと感じるのは、種(スリーステップ前)の段階で既に食べたら美味しいって知っているからかもしれない。なんならこの地点のコロッケの中身の方が完成されたコロッケよりおいしい事すらある…二口だけ自分に許す。うんまい。この段階でよく母に味見をさせてもらったな、と幼少期の実家の台所が頭に浮かぶ。
実家の台所、窓からじゃがいもの湯気に明かりが差し込む。共働きの母にとってもたぶんコロッケは面倒で、休日の昼間にまとめて作ってたんだなとあの頃に思いをはせる。潰されたじゃがいも、潰された瞬間にふわっと立ち上る湯気、湯気に光、荒れた母の手で口に入れられたコロッケの種。幸福な記憶。
作ってしまえば、そう面倒では無いので、もっと身軽にコロッケを作れる人間になりたい。
「コロッケを作る」は、「丁寧に生きる」と同義語。(冷蔵庫の残り物で作った事を忘れて偉そう)
食後テレビを見ていたら、あんこのお団子が出てきて食べたくなる。いそいそとキッチンに戻って、いつか作ろうと思って買ってあった白玉粉を探す、取りだす。
こういう時見つかった食材を掲げ、「しーらーたーまーこー」とか心のドラえもん(わたしの場合は大山のぶ代さん)が言っちゃうのは、何歳から何歳までの癖なのか、きっと日本全域、生きとし生けるもの全て。
さっきコロッケの種を混ぜていたボウルで今度は白玉粉を混ぜる。さっきまでポテトとひき肉が入っていたのに…ボウル、なんだか働き者だなと感慨深く、そのうち肩でも揉んでやりたい。としんみりした。(うちはほぼ1つのボウルで全てを賄っている)
白玉粉を作るのは小1以来2回目だ、小1の時担任の中西先生が特別にクラスで作ってくれた。「耳たぶぐらいの硬さにするのよ」中西先生の言葉が甦る。今もあの頃も「これが耳たぶぐらいの硬さだ」と胸を張って言える自信はないけれど。(私の耳たぶとあなたの耳たぶはおなじなのか、あなたの幸せと私の・・と考えが哲学じみてくる。)
不思議に自然と先生に教えてもらった形につくる。真ん中を窪ませるタイプの白玉。
白玉にあんこをのせる。白玉あんこ。自分で作った白玉がなんだかうれしい。先生、私は大人になりました。