揺らぎの中に凄みを感じる 伊与原新『月まで三キロ』の読み方
短編6話ともプロトがしっかりしていてとても読みやすいです。作者が科学の研究をされていた方だということがよくわかります。
「答え」を最初に決めていて、方程式を逆算するように、解きほどいていき「問い」を出すようにして書かれています。
「月」という地名、雪の結晶、アンモナイトの化石、古いサイダーの瓶、人気のない食堂のメニュー表、一眼レフのカメラなど、それらの題材から、作者は構想を膨らましてゆき、「答え」を先に決められているのではないでしょうか。
そして、そこに至る過程を論理的に説明するという大きな道筋を立ててゆかれる。それだけでは、味気ないものになってしまうので、シンメトリーの伏線を引いて、ボリュームを持たせるようにする。
実に計算し尽くされたストーリーになっています。
この作者のすごいところはここからです。よく読み込んでみればわかると思いますが、時折本線や伏線からそれる瞬間があります。計算し尽くして書いているはずなのに、意図しなくて書いてしまう。「降りてくる」瞬間があるのです。自分以外の大きな存在に突き動かされて思わず筆が進んで書いてしまう、そんな瞬間があるようです。
本線や伏線からそれた。そこを見逃さないで、何も考えずに一緒についてゆきましょう。
うな重に胸焼けする感覚。埃っぽいガードレールに腰かけて見上げる月。ハンマーを持つ手の感触、響き渡る音。自分の手の中で息を引き取るペットの毛並みとその温もり。
知らないうちに、作者との一体感が生まれ、ストーリーの中に入り込んでしまっている自分を感じるでしょう。
計算し尽くされているストーリーと頭でわかっているのに、作者の「降りてくる」瞬間と同期してしまい、最後は涙が止まらなくなってしまいます。何度読んでも同じです。
そこに、魔法にとりつかれたような感覚と、作者の凄みを感じてしまいます。