流氷の叫び声(『天国へ届け、この歌を』より)
ある日、行きつけのカウンターバーに新人の女の子が入っていた。小柄で色白の目鼻立ちがはっきりとしたフランス人形のような可愛らしい女の子であった。初対面だった。
どういう経緯か忘れてしまったが、閉店後一緒にタクシーで帰ることになって、どういう訳か彼女の部屋に上がり込んだ。
モルタル作りの2階建ての1階が彼女の部屋で、ドアを開けると申し訳程度の玄関と言うより靴の置き場があって、いきなり洗濯物が干してあるのが見えた。
彼女は、明かりをつけたが天井に干してある洗濯物のせいで部屋の隅々まで、その明かりは届いていなかった。クローゼットの中に入ったような感じだった。
「適当に座って、今ストーブをつけるから」
狭い部屋の大半を占めているのが、電気コタツと円筒型の石油ストーブだった。下に散らかっているチラシやら雑誌を払いのけて、無理やりスペースを作ってコートを着たままコタツに足を入れた。部屋の中でも、息が白く吐き出される。まるで冷凍庫の中にいるようだ。
「内地から来た人なら、大変でしょう。寒いでしょう。私は、もっと寒いところから来ているから、札幌の寒さ何て平気よ。網走の近くの小清水と言うところから来てるの。そこの寒さに比べれば、札幌の寒さ何て平気よ」
ストーブの炎の加減を調整しながら、話す彼女の横顔はまだ少女の面影を残していた。教会の祭壇に置かれたキャンドルを灯す少女のようだった。炎の揺らめく光は、彼女の横顔を一層彫りの深いものにして、美しさを際立させていた。透き通るような白い頬をほんのりとした紅色に染めている。瞳は炎が映し出されて、朝日を浴びた湖面のような憂いのある輝きを帯びていた。
「ちょうど今頃の時期に、流氷が流れてくるの。みんなは知らないと思うけれど、流氷は、すごい音がするの。遠くから、水平線を壊して流れてくるときは、地鳴りのような音。地の底から、これから恐ろしいことが始まりますよ、みたいな音。大勢の人が足踏みをするような音がするの。その音でみんなが脅されるの。これからみんなを閉じ込めてしまいますよと脅されているような気がするの。流氷が海岸まで流れてきたら、もう最悪。町全体が流氷に乗っ取られてしまうの。朝も昼も夜も一晩中、叫び声が聞こえてくる。吹雪の音に混じって、擦れるような、軋むような音がするの。それが唸り声と言うか、叫び声に聞こえる。そして、思い出したように、昔の大砲のようなドンと家が揺れるくらいのものすごい音が合間に響くの。それが一日中、春になって流氷が帰ってしまうまで続くの。私は、それが耐えられなくて、高校を出たらすぐに飛び出して、札幌に来たの。ここは、流氷の音がしないの。あの冬中ずっと続くあの音がしないの。少し物足りないけど、自由になった感じ。誰にも縛られない自由って感じ。本当は女子大生だけど、夜アルバイトしても、誰にも、何にも言われないし、私は自由よ。今頃が流氷のやってくる頃。何だか実家が懐かしくなっちゃった。実家に電話していい?」
時期遅れのサンタクロースを乗せたトナカイのそりのような軽快な鈴の音を響かせて除雪車が通り過ぎる音が聞こえる。
彼女は、電話を掛けた。
こちらを意識しているのだろうか、声を随分落として話している。先程と違って随分訛りのある話し方をしている。
もう一度、彼女の横顔を盗み見た。
そこにはフランス人形の面影はなく、頬っぺたの紅い北国の小学生の横顔がストーブの炎で揺れていた。
部屋が徐々に温まってくるのにつれて、私の酔いが醒めてくるような気がした。