時代小説『龍馬が月夜に翔んだ』第3話「君が側にいて欲しい」
龍馬は、目を閉じた。
見知らぬ蝦夷の地で思う存分商いをしている姿を思い描いた。
眠くなった。
自分は空の上から、地上を見ている。額に汗して一生懸命に働く男がいる。最初はそれを自分の姿だと思っていた。
その男が手拭で汗を拭いて空を見上げた。自分ではない。若い。甥の直だ。なぜそこに、直がいるのだ。なぜかわからないが、空の上から、直を見ていると、それでもいいのだと思うのだった。
そして、自分自身の姿を見ると、自分がいないのだ。雲一つない青空に溶け込んでいるのだ。自分は、ここに居るのに、体が青空の中に溶け込んでいる。すぐそばで、雲雀がさえずる鳴き声が聞こえるのに、自分がいない。なぜだ。なぜだ。
目を覚ました。
夢か。
この醤油匂いがだめだ。
潮の香りを嗅ぎたい。
海のど真ん中でないと、よい智慧は浮かばない。醤油樽のような小さい所では息が詰まる。それにしても、今夜は気分がすぐれない。何やら胸騒ぎがする
「藤吉、すまんが社中の者がおったら呼んでくれ」
「はい」
すっと引き戸が開いて、藤吉が顔を見せた。
色白の端正な顔立ち。この大柄の若者は普段は姿を見せないが、たとえ真夜中であっても呼べばすぐ来る。相撲ではかなり名が通ったと聞く。興行主と折り合いが付かず故郷に戻ったが、何を思ったが板前になると言って京に出てきた。何件か回ったが、手が大きくて指が太すぎるとの理由で包丁は握らせてもらえなかった。
結局は祇園の武乃屋で体が大きい割には、人当たりが良く気が利くということで、下足番のような仕事についていたらしい。
そこで、長岡謙吉が見つけてきた。
この男は分厚い戸板のような体をしている割に愛想がいい、嫌な顔を見せたことがない。
しかし余程修行を積んだのであろう、廊下を歩くときに音をたてない。気配を消すことが出来る。いつも何処からか、すっと姿を現す。氣を消すことが出来るということは、それを自由に操ることが出来るということである。
この体で氣を発されると、仁王のごときに変化するだろう。さすが長岡が連れてきただけのことはある。
「佐柳様が、いらっしゃいましたのでお呼びしております」
「おおそうか。ところで、峯吉はおったか」
「居ません。また、実家でも戻ったのでしょう」
藤吉に比べて、小柄で小賢しい峯吉はどうも気に食わない。
実家が近いとのこともあるだろうか、事あるごとに近江屋を抜け出して、実家に帰る。不思議なことに、そのあとすぐに来客が来る。居所も知らせてないのにも関わらずである。
明らかに峯吉が、何処か外部の者と連絡を取り合っている。
「坂本先生、何か御用ですか」
「おお、佐柳君。一つ頼みたいことがある。この日記を長府の伊藤家におるお龍に渡して欲しいのじゃ。三吉慎蔵にも手紙を渡して欲しいのじゃが。それは、今晩書いて明日渡す。明日にも発って欲しい」
「分かりました。何か急用でもありましたか」
「何ちゅう無か。いつもの気まぐれじゃ」
とは言ってみたものの、内心は不安だ。
寺田屋で襲われた時のような胸騒ぎがする。あの時のように、常に誰かに見張られているような気がする。
現に、先程新選組の伊藤甲子太郎が来て、後藤の指図で土佐藩邸周辺近江屋も含めて警護することになったと言って挨拶に来た。伊東が言うには、新選組の局長の近藤勇という男は、元々勤皇の志の厚いものであったが、六月に幕臣に取り立てられて旗本になったので、隊を二つに分けて、勤皇派を御陵衛士として独立させたものらしい。頭は、一応伊東となっているが、近藤指揮下に置かれているそうである。時代が変わったと言え、変な気分だ。あれ程、恐れていて逃げ回っていた新選組が、警護してくれるとは。
何か落ち着かない。
その様な訳で、寺田屋の時のように勘の鋭いお龍が側にいて欲しいのだ。あの時、助太刀してくれた三吉慎蔵にも一緒に居て欲しいのだ。
その旨を手紙に書いて、佐柳に渡そうと思う。