短編小説『跡を残して、名を残さぬ人』
話は前後してしまいましたが、そもそも知恩院三門の建築の総責任者でおられた五味金右衛門様が、何故お亡くなりになられたのかをお話しなければなりませんね。
大変つらいことです。
本当は、先にお話ししなければならないことなのですが、つい後回しにしていました。
あまりにも辛い話なので避けておりました。
しかし、真実は伝えてゆかなければなりませんね。
では、ありのままをお話ししましょう。五味様は、三門の建築に携わった人全ての咎(とが)を一身に受けられて罪を償われたのです。
棟梁の頭であった私の主人はもちろんですが、私たちも関係していることです。五味様がいらっしゃらなかったら、知恩院さんの三門は、今のお姿で立っていなかったのです。
全て五味様のお陰です。
主人は、昔ながらの職人気質です。
京に来てからは、やむをえず時世に合わせなくてはなりませんでしたが、根本的に仕事に対する姿勢は変わっておりません。
それがなければ、奈良から呼び寄せられて、京の建物の造作を任される大棟梁にはなれなかったでしょう。
当然、知恩院さんの三門を作る時も、こだわりを持って取り組みました。
そして、見事な出来栄えの三門が出来上がりました。
しかし、その後がいけなかったのです。当初予定していた予算をはるかに超えてしまっていたのです。
その時主人に聞いていたのですが、その額は忘れてしまいましたが、確か十万両を超えてしまっていたようなことを話していました。
日当は、五味様の方からきちんと頂いておりましたので、そんなことになっているとは知りませんでした。
もともと手の込んだ仕様にしておりますので、高くなるとは思っておりましたが、当初の見積もりの倍ほどになるとは知る由もなかったと、主人も嘆いておりました。
翌年には、日光に東照宮様をお祀りする社を作る予定になっておりました。
知恩院様の三門が予算を大きく超えてしまっている問題で、財政が圧迫してその建築に影響が出るかもしれない。
そのことが、直接将軍様の耳に入ってしまったのです。
徳川家は、先祖代々質素倹約を旨としており、天下を取ったからとして、その方針は変わることはないと大層お怒りになったそうです。
その矛先が、久事方奉行であった五味様一身に集められました。
五味様は、その責任と取る形で切腹を申し渡されたのです。
あれやこれや後で出てきた話によると、材木の手当てをしていた紀州藩と尾張藩の両方ともが、藩の利益になるようにと、色々と後から難癖をつけて見積もりよりも、大幅に高い金額を請求してきたのだそうです。
両方ともが、将軍家の息のかかった藩だけに、そのようなことをしないと思っていたのに驚きです。
五味様は詰め腹を取らされた形となったのです。
これも後から分かった話なのですが、五味様は常陸の国の出でいらっしゃるのですが、足りなくなった資金を埋め合わせる為に、自分の所有していた土地を売り払ったりして、埋め合わされていたそうです。
家督も譲ってしまわれて、ご自身はほとんど無一文になられたそうです。
それほど、三門のために尽くされたというのに何ということでしょう。
五味様は、ご自宅で切腹されたのです。三門の完成を見届けて、お世話になった方々のところの挨拶回りを一通り終えられた後、腹を切られたそうです。
当然、わたしどもの屋敷にも来られたと思うのですが、全く記憶がありません。現場を回られて、大工たちに声を掛けておられる姿のみが思い出されます。
そのお姿しか、わたしどもの記憶に残っていないのです。
ご立派な方でした。