短編小説『おいしいよりも美しい』
明かりを消すと、キャンドルの光に命が宿った。
「頂きます」
生成り色のリネンのテーブルクロスが黄金の絨毯に変わった。
スパーキリングワインの泡が、小粒の真珠のように生まれては、微かな弾ける音を残して消えてゆく。
どこにでもあるような、白いお皿が艶やかな肌をむき出しにして、豊かな曲線を描き出した。
炎が揺らぐ。
ご飯の一粒それぞれが輝き始めた。
目の前の世界が、各々に光と陰を持ち、生命を持ち始めた。現実の世界から、もっと深い世界に入ったような気がした。それは、幻想ではなくて、現実の世界の本質を浮き彫りにしたように思えた。
私は、それを言葉に出せなかった。言葉に出してしまうと、表面の薄皮一枚ほどでしか伝わらないような気がする。
私には、それを正確に伝えるような技巧を持ち合わせていない。
この感動を私一人で抱え込むには荷が重すぎる。
妻の美由紀に伝えたい。
この場に一緒に居てくれたらなと思う。今度、名古屋に帰ったら、娘のカンナに料理を作ってもらって、キャンドルの明かりの中で食事をしよう。
意識を他に向けようとすればするほど、香田さんを意識してしまう。打ち消そうとするほどに頭の中で、香田さんの存在が大きくなってゆく。
私は、このキャンドルの炎のように頼りなく揺らめく。暫くその炎を見つめていた。スパークリングワインの小さな泡が弾ける音が、キャンドルの炎から発しているように聞こえる。
本当は、香田さんの顔を見たい。
でも見ることができない。私には、そこまでの勇気がない。
それを打ち消すように箸をとって、料理に手を付けた。
味がない。
味が感じられない。確かにおいしいはずなのに、緊張しているせいか、意識が違う方向に向いているせいか、味覚の方にまで回ってこない。
「お味はいかがですか?」
顔を上げると、香田さんは箸を持ったままで料理に手を付けないでいた。
「美味しいですよ」と言えば嘘をつくことになる。なぜか香田さんとの間に嘘が混じってはならない気がする。少しの偽りが混じってしまうとすべてが崩壊するように思う。
香田さん、ありがとう。美味しいと思うよ。でも本当のことを言うと・・・。味がわからないんだ。ごめんなさい。いつもは、寂しく一人で食事をしているのに、こんな綺麗な人と二人きりで食事をするなんて夢みたいで、それも手作りの夕食を作ってくれるなんて・・・」
思わず綺麗な人と口から出たのは、自分でも驚いた。
香田さんに声を掛けられて、ろうそくの炎の明かりに映し出された香田さんの顔を見た時、鳥肌が立つくらいの衝撃が走った。
美しい。
この世のものと思えないほどに美しかった。だから、思わず出てしまった。
その時私は、味覚よりも美的な感覚の方が優先されるのだと、初めて知った。