小次郎,敗れたり!(『宮本武蔵はこう戦った』より)
「佐々木殿、敗れたり」
武蔵は、小次郎に向かって言い放った。本来であれば、目上の人に対して礼を失する発言であるが、小次郎 の心を乱すのには有効だと敢えて言った。もちろん、己を鼓舞する意味もある。しかし、その根底に流れているのは、小次郎の冷徹な行いに対する怒りである。
小次郎は、冷静を保って、表情には何も現さなかった。しかし、内面は大きく揺れ動いた。何気なく取った行為が、武蔵に見透かされたことである。
確かに、無意識に鞘を外した。燕返しを使うためには、砂浜では鞘が気になるので、外した。己の無意識な行いが、相手に攻め手を悟られるという初歩的な失敗を犯してしまった。勝負の世界では、先手を読まれるということは、こちらが後手に回るということである。後手に回るということは、負けを意味する。
初手を読まれている、もはや燕返しは使えない。
それでも構わない、この長光さえあれば、だれでさえ、間合いに入らせることは出来ない、燕返しを使わず、一刀のもとに切り伏せてやる。
小次郎は、燕返しの時と同じように、腰を落し、右手首を肩の高さまで下げ、刀を寝かした八相の構えを取り、ゆっくりと歩み足で進んでいった。
武蔵は、相対する小次郎に常に正面を向くように心掛けていた。それは、手にしているのが木刀ではなく、櫂であることを悟られないためである。常に正面を向いていれば、自分の得物(手にしている武器)の長さを悟られない。そのことに全神経を使っていた。距離は三十間程ある。
小次郎が、燕返しに使う極端に太刀を寝かした八相に構えた。
そこから、寝かせた太刀をすっと垂直になるまで起こし、脇を上げ、肩をいからせ胸を張った。その姿は、山の頂から得物を狙う、大鷲のように威厳があった。
武蔵はそれを見て走った。前につんのめって倒れるくらいに体を前に倒して走った。手製の櫂の木刀は脇構えに取り、切先を下に擦るほどに低くしている。武蔵は砂の上を滑るように小次郎に向かってまっしぐらに走った。それはまるで猪に追われた野鼠のように砂に上とは思えないほど敏捷であった。
三十間あった距離が、見る間に二十間となり、十間となり、このままいけば、武蔵は小次郎に体当たりを食らわせるように思えた。武蔵の前傾姿勢に取った頭は、このまま行けば小次郎の高々と上げている太刀の格好の餌食となるだろう。
その的は、燕に比べてあまりにも大きすぎる。
小次郎は、向かって来る武蔵に息を殺して狙いを定める。標準を武蔵の眉間に付ける。燕返しを使わず、一刀のもとに切るので、いつもと違って充分に相手を引きつけていかないといけない。しかも、この八相の構えから切り出すと、振りが小さくなる。下手をすれば、武蔵の間合いと同じ距離になり、同士討ちになりかねない。この構えから、大上段に振りかぶらないと、備前長光の優位性は保てない。
小次郎は正確に武蔵との距離を測る必要があった。しかし、それは武蔵がいくら必死に走っても、燕の速度には遥かに劣る。間合いを正確に充分に引きつけてさえいれば読み切れる。足元を固める。武蔵の額がぱっくりと割れる姿が浮かんだ。
必ず、仕留められる。小次郎は、確信を持った。ただ、気を付けなければいけないのは、武蔵は切られても、その走ってくる勢いで、体当たりを食らわせられる恐れがある。がむしゃらに、突進され、手当りに次第に木刀を振り回されば、当たりかねない。小次郎は、それを防ぐために、普段であれば、膝の高さまで斬り降ろすところを腰の高さで止めることにした。それならば、たとえ武蔵が死に体で体当たりを食らわしてきても、その体勢から突きを出し、長光が串刺しにして、防いでくれるはずだ。
冷静に待ち受けている小次郎に比べて武蔵は、武蔵は無策のまま無我夢中で突進しているように思えた。ましてや、小次郎は、作戦を変更しているとは思ってもいない。燕返しを使うと信じている。
武蔵は、何も考えていないように見える。ただ闇雲に突進している。
やっと無になれたのだ。