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短編小説『眠っているあなたに語りかける』

裕司が眠っている。

私は、ずっとベッドの傍らで裕司の寝顔を見つめている。

病院独特の薬品と汚物が混ざり合ったような臭い。

殺風景な建物に蠢いている怒りを押し殺したような重く響く騒音。

夜は眠れないと言っていた。それが嘘のように眠っている。

昼間私が見舞いに来て側にいる方が良く眠れるそうだ。

私にとってそれは喜んでいいことだろうか。複雑な心境になる。

彼はすごく重い病気に罹って深刻な状態にある。

それなのに検査ばかりが続いて、やっと治療が始まったのが5日前だ。

それで元気になって行くどころか、見る見るうちに痩せてきた。

皮膚が消費期限を過ぎた合いびきミンチのような色になってきた。

顔はヨードチンキを全体に塗られた後のような黄土色になった。

入院して一ヶ月も経っていないのに、すっかり病人の姿になってしまった。

裕司から生気とか若さを取ってしまうとこんな風に見えるのかなと思った。

そんな裕司を見るのが辛い。

口には出さないけれど、裕司が裕司でなくなって行くのが辛い。

それよりも心配をかけまいと無理をして、いつも通りにふるまおうとしている裕司を見る方がもっと辛い。

自分の身体よりも私たち家族を気遣っている姿が痛々しい。

だからこうやって、眠りについている裕司の顔を見ているのが好き。

何も気にかけないでゆっくりおやすみなさい。

裕司も、私が側にいて思い出話をしながら眠りにつくのが好きみたい。

目をゆっくりと閉じて、思い出に浸ろうとしながら、そのまま眠りにつこうとする時の顔が、何とも言えずに満足そうに見える。

私は、そのまま眠りについている裕司に無言で話しかける。

初めて出会った時の事とか、私の家に来て両親の前で結婚をしたいと言うことがうまく話せなかったこととか、思い出話をするのが好き。

眠りについているけれども、裕司には聞こえているような気がする。

名古屋の病院で受けた検査結果で膵臓がんが見つかり緊急入院することになった。すぐに裕司が単身赴任している大阪に駆けつけた。

その日はたまたまスターダストレビューのライブを一緒に見に行く日だった。

大阪に行って裕司の顔を見たら言い出せなかった。

言い出せないままライブが始まった。

ずっと我慢していた。

でも『木蓮の涙』のイントロが始まった途端に耐え切れなくなった。

涙が堰を切ったように流れてくる。

居ても立ってもおられずに席を立った。

フロアーで人目もはばからず泣き出してしまった。泣き声がフロアー中に響き渡った。

気が付くと裕司がやって来て、後から抱きしめてくれた。

裕司は何も聞かなかった。でも、私の様子を見て悟ったようだ。

何も言わず、黙ってうなずいた。

後になって、私はそれを深く反省した。

裕司は、もっと泣きたいはず。裕司は、もっと辛いはず。でも、それを一切出さない。

そんな裕司を見ていると、私はもっとシッカリしないと駄目だと思う。だから、私は誓った。

裕司の前では決して涙を見せないと決めた。

裕司が眠っている。

私は、ずっとベッドの傍らで裕司の寝顔を見つめている。

思い出に浸りながら、泣いて良いでしょう。

裕司が寝ているから、今は思いっきり泣いて良いでしょ。

寝ている裕司の顔が、春の日差しが差し込んだように綻んだ。

楽しかった時の事でも、夢を見ているのかしら。

若い頃のまだ肩まで長髪だった裕司のはにかむような優しい笑顔。

その笑顔最近見たような気がする。

そう、この前単身赴任先の大阪に行った時に、その笑顔を見た。

偶然に、裕司が香田さんという同じ会社の女性と仲良く歩いて所を見かけた。

あの時見せていたあの笑顔と同じ。

その帰り道、香田さんの名前を出した時の裕司の横顔。

香田美月さん。

礼儀正しい娘さん。色白の美人。

浴室に残された黒髪の持ち主かもしれない人。

嫉妬よりも、彼女の若さに引け目を感じる私。

別れ際の悲しそうな目。

通りに佇んで何時までも私達を見送っている姿。

お惣菜を彼女のマンションに届けた時の零れるような笑顔。

 その中に若い頃の私の面影を見いだした。

また、香田美月さんに会いたい。

「裕司、あなたもそうでしょ」

裕司の口元が一層緩んで、「そうだよ」と、答えたような気がした。

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大河内健志
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