短編小説『月明かりに照らし出される幻想』
「そろそろ閉店の時間になります」
追い出されるように二人はカフェの外に出た。
「随分、遅くなってしまったね。申し訳ない」
「私の方こそ、引き留めてしまいまして、申し訳ありません。時間を忘れて、話し込んでしまいまして、すいません。貴島支店長、夕食はどうなさいます」
「そうだね、スーパーも終わってしまっているので、近くのコンビニで何か買って帰ることにするよ。香田さんは、どうするの?」
「何にも食べません。普段は、自炊しているのですが、さすがにこの時間になると、健康に悪いので止めておきます。貴島支社長も、出来合いの物ばかり食べていると健康に悪いですよ」
ふと娘のカンナのことを思った。
カンナがこんな時間に、歳は離れているとはいえ、男性と二人きりでいると思うと複雑な思いがする。むしろ不快だ。
「遅くなったから家まで送っていきましょう」
「すぐ近くですから、大丈夫です。貴島支社長こそ、気を付けて帰って下さいね。では、さようなら」
「じゃあ、気をつけてね」
*
なんて優しい人なのだろう。
オトーサンは、やっぱりわたしの思っていた通りの人だ。
ほんとうは、オトーサンとずっといたい。
このままずっといたかった。
離れたくなかった。
もっと話を聞いて欲しかった。
うしろを振り返った。
さびしげなオトーサンのうしろ姿が、闇に溶けていくところだった。
「お父さん、いかないで」
「オトーサン、消えないで」
わたしは、夢中で追いかけた。
わたしの足音に気が付いたのか、貴島さんは足を止めた。
そして振りむいた。
そこには、亡くなった本当のお父さんの顔があった。
中学生のときに、玄関先で靴みがきをしているお父さんが顔を見あげて、わたしを見たときの顔があった。
「しばらく見ない間に大きくなったなあ」と、わたしに驚くお父さんの顔があった。
「貴島支社長、こんどワタシの手作りの料理を食べてもらってもいいですか?」
思わず口にでてしまった。
でも、本心。
わたしは、料理を作るのがすき。
歌をうたうのと同じくらいすき。
いつも思っていた。
だれかに私の手作りの料理を食べてもらいたいと思っていた。
本当は、お父さんに食べてもらいたかったのだけれど、それはかなわないから。
そう、歌をやめたわたしは、料理でだれかのために喜んでもらいたいと思っていたのかもしれない。
「あすは無理ですけど、あさってなら大丈夫です。わたしの家に来ていただけますか?わたしに料理を作らせてください」
*
小走りの足音が、追いかけてきた。
振り返ると、香田美月だった。
暗闇に彼女の笑顔が浮かび上がった。
肩越しに上弦の月が彼女を照らし出していた。
眼鏡を外した彼女の顔は、舞台の上に立つ女優のように見えた。
月の光のスッポトライトが、鋭利な刃の様に、繊細な線で彼女の輪郭を描き出していた。
そこには、「女」が立っていた。
邪な官能の対象としてではなく、崇高な美の対象としての「女」がいた。
香田美月は、「女」だったのだ。
月夜に照らし出された彼女は、恐ろしいくらい美しかった。
「貴島支社長、今度私の手作りの料理を食べてもらってもいいですか?」
「明日は無理ですけど、明後日なら大丈夫です。私の家に来ていただけますか?私に料理を作らせてください」
「どうもありがとう」
彼女は、にこりとしてすぐに、もと来た道を戻っていた。
彼女の黒いパンプスの踵が、月夜に輝き楽しそうに餅つきをしていた。
彼女が、手料理を作ってくれるという。
しかも、家に来てくれと言う。
同じ会社の人間とは言え、今日初めて話しただけなのに、誘われた。
何かを企んでいるのだろうか。
どう考えても、今日の彼女の様子を見ているとそうは思えない。
コンビニの前を通りかかった。
さっき彼女の言ったことが頭に引っ掛かって、とても何かを食べるという気がしない。
ロング缶のビールとつまみを買った。
見上げると、先程の上弦の月があった。
それは心なしかいつもより輝いているように見えた。