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背を向けるものは、斬る!(『龍馬が月夜に翔んだ』より)
服部武雄が、龍馬の用心棒の藤吉の強烈な羽交い絞めで落とされようとした時、抜き身の手槍を手にした大石鍬次郎が、疾風のような速さで二階を駆け上がってきた。
「中岡慎太郎は何処じゃ。お前ら、ぶった斬られたくなけりゃ、大人しくしろ」
奥の部屋に入ろうとするが、行く手は服部を羽交い絞めしいる藤吉がふさいでいる。
「服部さん、ご無礼」
大石は、羽交い絞めしている状態のまま藤吉の脇腹に手槍を浅く突き刺した。
藤吉は思わず羽交い絞めを外した。
藤吉は自分の痛みに手を当てる間も惜しみ、すかさず龍馬を探した。
龍馬は、この場を逃れようと、正面の障子を開けて物干し場に移ろうとしていた。
藤吉は、傷ついて血が流れ落ちているのも気が付かないのか、体を左右に大きく揺らしながら、龍馬の方へ向かって行った。
服部は、先ほどのお返しとばかりに、すかさず居合抜きに藤吉の背中を右袈裟掛けに斬った。
血しぶきが舞い上がる。
先程の龍馬を斬った時とは違い、今度は刃を入れて切り下げた。
口からも血反吐を噴き上げながら、のけぞる藤吉。
ゆっくりとひざまずく。
朦朧とした視界に、龍馬の姿が目に映ったのか、膝をついたままにじり寄ろうとする。
そして前のめりに倒れた。
藤吉は、悔しそうに握った右手を前に出したまま息絶えた。
背後で、激しい振動は伝わるが、全くの静寂に包まれている。
音がない。
海の底をさまよっているような気分だ。
体の中の力という力が、全てなくなっている。
全身を締め付けられるような痛み。
「リョウマサン、マダシヌナ、ユメガアルハズ、シヌナ、ユメユメ、ユメヲカナエヨ、マダシヌナ」
三吉 慎蔵と中岡慎太郎の言った言葉が、頭の中で梵鐘の音のように鳴り響く。
前へ、前へ。
座敷を外に出る障子に向かって、這いずってゆく。
「リョウマサン、マダシヌナ、ユメガアルハズ、シヌナ、ユメユメ、ユメヲカナエヨ、マダシヌナ」
やっとのことで、障子までたどり着いた。
脇差を逆手に持った左手で、物干し場に出る障子を開ける。
身を清めるような冷たい風が入ってくる。
身体を投げ出すようにして段差を上がって、ようやく物干し場に出ることが出来た。
両手がふさがっていて使えないので、物干し場の欄干に肘をかけて、何とか立ち上がることが出来た。
龍馬は、凍りついた。
物干し場の周りは何もなくて、下に中庭があるのみ。
屋根伝いに逃げることが出来ない。
ここを飛び降りるしかない。
満月は、冷たく龍馬を見下ろしていた。
つづく
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